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須佐神社と武塔神社の創建

小童村誌 第二章 歴 史

第二節 原始古代の小童

二 須佐神社と武塔神社の創建

須佐神社の由緒

一四六九(文明元)年に、小童麓山城主綱時によって書かれた「小童牛頭王社鎮座由来記」には、「宝亀五年甲寅光仁天皇の御宇四月、天下に疫癘はやる、備州世羅の郷、童、武塔において、我は邪毒鬼神なり、本地は妙見菩薩なり、此の里に牛頭天王を祀り、疫癘のみそぎばらいをせよと諭された、御殿を建て同年六月十四日に、旗・鼓・笛・鉦をうち御旅所へ神幸、同十六日未申の刻、元の御殿所へ帰られる、それより霊場日々に繁栄、村・里・郷より崇め敬い奉る」と記されている。

須佐神社は、県北一帯から岡山県西北部に信仰範囲をもつ由緒ある神社であるが、七七四(宝亀五)年の創建となると、大変古い鎮座となり多少疑問も出てくる。そこで当時の神道の状況からこのことを検証してみた。

原始時代以来、人間は天地自然の現象を神と崇め、山の神・日の神・水の神・火の神等を信仰した。このような自然崇拝には、社殿を建て神を祀ることはなかった。しかし、弥生時代古墳時代と時代が進むと、銅鏡等を御神体として祀り社殿を建つことが始まった。

さらに、仏教が伝わると、寺院建築が刺激となって、飛鳥時代には社殿造営のうえで画期的時代を迎えた。 こうして、全国の主たる神社は奈良時代までに祭神を祀る社殿を建立するようになったと考えられている。朝廷は神社の国家統治を目的に、これらの神社に対して神位を授け、従五位以上に叙せられた神社を国史に登載するようになった。この方針は一層推進され、六位または無位の神社を五位に叙することが多くなった。

このような神社の国家統治に照らして須佐神社をみると、一八〇四(文化元)年馬屋原呂平が編纂した「西備名区」には、平安時代初期に編纂された国史「三代実録」の貞観三(八六一)年十月廿日の条に「備後国正六位上大神々、天照真良建雄神並授従五位下」と記されているが、この天照真良建雄神社は須佐神社であると論証している。
さらに、一八七一(明治四)年の神社調べの際、調査主任田村良穂が調査研究の結果、天照真良建雄神社は須佐神社のことであると断定した。

このような経緯から、須佐神社の創建は奈良時代またはそれ以前であると言える。 そして、それ以後現在までの長い間小童の政治・経済・文化全ての面で、大きな影響を与え続けてきた存在であると言える。

武塔神社の由緒

武塔神社という名の神社は、全国で小童の亀甲山に祀られている神社のみと言われている。
さらに、祭神の武塔神にかかわる神話は備後国風土記逸文にのみ載っている。 したがって、備後地方とりわけ小童に関係の深い神社であり祭神である。

奈良時代に朝廷の命により編纂された風土記は、数国のものしか現存していない。 備後国風土記も残っていないが鎌倉時代中期に著された、釈日本記第七「素盞鳴尊乞宿衆神」の註に、備後国風土記から引用した、武塔神についての神話を載せている。

「備後国風土記逸文」(広島県史資料編より)

備後の国の風土記に曰はく、疫隅の国社、昔、北の海に座しし武塔神、南の国の女子をよばいに出てまししに、日暮れぬ、彼の所に将来二人ありき、兄の蘇民将来は甚く貧窮しく、弟の巨旦将来は富饒みて、屋倉一百ありき、爰に武塔の神、宿處を借りたまふに、惜しみて借さず、兄の蘇民将来、借し奉りき、即ち、粟柄を以ちて座と為し、粟飯等を以ちて饗へ奉りき、爰に畢へて出でませる後に、年を経て、八柱のみ子率て還り来て詔りたまはく、「我、将来に報答為む、汝が子孫其の家にありや」と問ひたまひき、蘇民将来答へて申さく、『己が女子と斯婦と侍ふ』と申しき、即ち詔りしたまわく、『茅の輪を以ちて、腰の上に着けしめよ』とのりたまひき、詔の随に着けしむるに、即夜に蘇民の女子一人を置きて、皆悉にころしほろぼしてき、即ち詔したまく、『吾は速須佐雄の神なり、後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ』と詔りたまひき。

この逸文にある「吾は速須佐雄の神なり、後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」の記述から、武塔神は須佐之男命と同一神であることが分かる。したがって、小童の須佐神社と武塔神社の祭神は同一神で、ともに疫病除けの神話を基に信仰を集めてきたと言える。
また注目すべきは、この逸文の原本が備後国風土記であって、武塔神やそれにかかわる蘇民将来の神話が、表現を変えれば、祇園祭に代表される祇園信仰が備後地方のどこかを発祥の地としていると考えられることである。

神仏習合思想と神宮寺

日本人は社会生活の始から様々な精霊を崇拝してきた。それは山の幸海の幸に感謝する自然崇拝であり、集落が形成されるとその形成維持に感謝する祖霊崇拝であった。
このような信仰を持ち伝えている日本へ、人間の死後の世界を説き現世においては戒めが必要であることを説く仏教が伝わってきた。伝来の仏教は聖徳太子の保護政策もあって急速な広がりをみせ、壮大な寺院も建立されるようになった。

仏教信仰が熱を帯びてくると、当初神仏の聞には反目や抗争が生じている。しかし、時が経過するにつれおおむね自然な形で融合するようになった。

奈良時代になり聖武天皇は政治の根本に仏教をおき、全国に国分寺・国分尼寺を建立し、国家の災害を除き繁栄をもたらすように読経することを命じた。この仏典を読経することにより国家の繁栄を願う考え方は、仏典を神前においても読経すれば、より加護の力が大きくなるとの説に発展していった。こうして主要な神社の境内に神宮寺が建てられ、神前において読経がなされるようになった。

平安時代になると神仏の融合は一層進み、神仏は一体であり仏は人々の苦しみを救うため、日本においては仮に神として現れている。このように説く神仏同体説や本地垂迹説に発展し神宮寺の建立は全国的な広まりをみるようになった。

神仏習合思想の影響により、須佐神社の祭神須佐之男命の本地は薬師如来であると説かれるようになった。さらに命と同じように武勇で名高いインドの神である牛頭天王と習合し、同一神と考えられるようになった。その結果「武塔神=須佐之男命=牛頭天王」と一体でとらえ、疫病除けの神として崇められるようになった。
この信仰は午頭天王が、祇園精舎の守護神であったことから、祇園信仰と称され、信仰のよりどころは先述の備後国風土記の逸文の内容(ただし神仏習合思想の普及とともに仏教色を強めている)におき、全国的に広まりをみるようになった。そして蘇民将来のお札は疫病除けとして、京都の祇園社を始め各地の神社から出されるようになった。

この過程を、昭和初期に、当時第二高等学校の教授であった阿刀田令造は、その論文「蘇民将来」の中で、「・・・斯くのごとく蘇民将来(守り札)は各地方から出されているが、その本現地は備後なることあきらかである。それが京都に伝わりその伝わったものが、京都文化とともに各地方に広められ、その際地方文化すなわち郷土化せられたものである。」と記述し、祇園信仰発祥の地は備後地方であるとしている。
小童の須佐神社も、神仏集合の影響を強く受け、備後地方北部において、祇園信仰の中心的役割を担ってきたと言える。社名も祇園午頭天王杜となり、境内には神宮寺が建立された。この神宮寺は「亀甲山感神院本願坊神宮密寺」と称し、宗派は真言宗であった。建立された時期は明かでないが、世羅郡誌は貞応年間(一二二二~一二二四)には既に建立されていたと記している。

(文責 福原 勲)

著作権: 小童村誌 甲奴町郷土史小童地区編
平成十四年五月一日 編集・発行:小童村誌編集委員会

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編集後記