Skip to main content


甲奴町文化財ガイド

ふるさとの歴史や文化を未来へと語りつぐ

須佐神社の「神輿」

1.jpg八角長柄構え、台単つき、反転屋根、高さ3.4m、幅2.1m、重さ1.5トンの大神輿で、地元では「おごっさん」と称して親しまれている。永正14(1517)年の創建で、寛文8(1668)年に北備5郡から、戸別1文の寄付を得て台車に乗せられた。基盤側面にある「剣かたばみ」や「ともえ」などの文様が[[室町時代]]の特色をよく現している。またこの神輿は[[櫛稲田姫命]]をまつった社であることや、内部に心柱をもつことは他に例がなく、貴重な文化財である。

吉備津神社のサクラ

樹種はエドヒガン、指定された当時の記録によると幹囲7.6m、樹高15mとある。昭和60(1985)年6月 30日の暴風雨で主幹が倒伏したが残った幹から出ている枝は旺盛な樹勢を保っている。開花は4月上中旬で地元では古くからこのサクラを「苗代ザクラ」と呼んで、開花を農作業の目やすにした。

須佐神社のフジ

須佐神社の参道の右側にある。根回り3.5m、高さ25mで広島県下第2位の巨木である。戦国時代に小童麓山城主であった長網時が植えたと伝えられ、樹齢約500年と推定される。幹は4本に分岐して杉の古木にからんで伸びあがり、上部で左右にひろがっている。開花期は5月上中旬である。

窯跡

4.jpg昭和62(1987)年に甲奴町犬字小童の藤原省利氏の宅地造成中に発見されたもので、広島大学により発掘調査がなされた。煙出しをもった焼成室と焚口とからなっており、焼成室はたて1.6m、横1.3mで、約15度の傾斜をもった[[のぼり窯]]であった。床面は赤黒く焼け、多量の木炭や土器が発掘された。室町時代のものと思われ、須佐神社や神宮寺に近く、それらと関係があったものと考えられる。

小童須佐神社縁起

5.jpg紙本墨書、巻子装、本文は縦36cm、横768cmで、文明元(1469)年に、小童麓山城主長細時が書いたものである。前段は[[牛頭天王]]の諸国巡幸説語や[[蘇民将来]]・[[古旦将来]]伝説が記され、続いて須佐神社の前身である小童祇園牛頭天王社の創建のこと、さらにその当時の社殿の配置や、祭礼神幸の次第を詳記しており、当時の信仰、習俗を知ることのできる貴重な史料である。

石造宝塔

6.jpg須佐神社裏の竹やぶの中に、他の石造物と一緒に、高さ1.3の石造宝塔がある。宝塔としては小さいものであるが、礎石に天文9(1540)年の製作年の外に、「檀那長谷部氏長高連代」・「本願金牛王銀里東」の彫刻がある。この宝塔は、須佐神社に並んで建立されていた神宮寺に関係のあるものである。なお付近には石造多宝塔や、享保4年に建立された宝きょう印塔などの石造物がある。

元禄十三年検地水脹

7-1.jpg 7.jpg太郎丸村1冊、有田村2冊、安田村2冊の計5冊。元禄12(1699)年に、徳川幕府が前年幕府領になった旧福山藩領の検地を実施した。その繕聚をまとめて記録したものである。この検地の結果、従来の10万石であった旧福山藩領は15万石に増石された。この検地は、岡山藩に命じて実施させたもので、検地奉行は池田靭負である。旧上川村に保管してあったものであるが、抜湯村分が無いのが惜しまれる。

弘法山大山古墳群

8.jpgJR福塩線の線路南側犬山の中腹に、円墳7基が隣接して存在する。1号墳は盗掘のあとが見られるが、それ以外は完全な形である。なお1号墳の墳丘の頂部には、他の場所から移転したと思われる宝きょう印塔が立っている。

善福寺跡のシダレザクラ

9.jpg善福寺跡の墓地の南端にあり、幹囲2.8m、樹高16m、樹齢約400年と推定される。開花日は4月中上旬で、ピンク色の優美な花をつける。

粟島社のツクバネガシ

10.jpg粟島社の境内にあり、幹囲3m、樹高24m、枝張り15-18m、樹齢は約300年と推定される。粟島社の社叢中ひときわ目立つ常緑樹である。

塩貝八王子社、大神楽極打太鼓

11.jpg甲奴町大字小童塩貝の八王子社の氏子により伝承されているもので、小童須佐神社の夏の例大祭の第3日の神儀の一団として、地区の氏子により奉仕される。太鼓台に大小2個の太鼓をしばりつけ、四方に竹を立て、しめ縄を張る。太鼓楽人3人、笛1人、手捕子釘1人で、交替しながら打ち鳴らし、所作を演ずる。文献資料が無いので起源は明瞭でないが、江戸時代中期に始まったようである。

武塔神社のカヤ

12.jpgイチイ科の常緑高木。目通り幹囲3.77m、根回り5.85m、樹高約18m。樹勢良好で、現在県指定カヤ中第5位の巨樹である。

武塔神社のケヤキ

13.jpgニレ科の落葉高木。目通り幹囲6.10m、根回り9.16m、樹高約16m、枝張約18m。主幹は空洞になっていて樹勢は旺盛とは言い難いが、枯死のおそれはない。

福田のダンバグリ

14.jpgブナ科の落葉高木。目通り幹囲3.56m、根回り5.23m、樹高約15m、枝張約10m。

中船神社のムクロジ

15.jpgムクロジ科の落葉高木。目通り幹囲2.14m、根回り2.33m、樹高約18m、枝張約12m。古くから黒色の種子を羽根玉や数珠にし、サポニンを含む果皮を石鹸の代用とした。社寺に植えられることが多い。

広石のモミ(小童)

16.jpg目通り幹囲3.17m、樹高約30m。農免道品線のすぐ上にある。

法専寺のモミ

17.jpgマツ科の常緑高木。目通り幹囲3.48m、樹高約30m。

太郎丸のエドヒガシ

18.jpgバラ科の落葉樹。種名はエドヒガシ。目通り幹囲3.40m、樹高13m。主幹内部はかなり腐食して空洞になっているが、地上2mあたりで再び癒着して、あたかも2種の樹木が合着したような珍しい樹形である。

吉田寺跡の宝きょう印塔

19.jpg甲奴町大字抜湯の三角山のふもとの吉田寺跡の積石塚の上に建てられている。材質は粒状石灰岩。塔身部の左右に「文禄五年内申才(1596)八月二日、中央部に「奉建立石塔一字、為権大僧都口口口口の文字が刻まれている。

石どう

20.jpg現在は甲奴町大字本郷井堀集会所横に移されているが、古くは矢原の清泰寺跡にあったものである。円柱後部に天和三癸亥天(1683)八月八日造立とあり、円柱正面に光明真言が三行に分けて刻字してある。また合部正面に弘庵宗寿、山室妙林の文字が読める。

峠川西遺跡出土品

21.jpg平成2(1990)年に県営圃場整備事業に伴い発掘調査された峠川西遺跡ら出土したもので、弥生時代中期後半のものと推定される。その特徴か瀬戸内系の土器と考乏られる。

本郷八幡神社のむさし岩

22.jpg現在は甲奴町大字本郷八幡神社の境内に移されているが、古くはジミー・力一タージビックセンター下の池付近にあったと伝えられている。表面に多くの刻線があるが、これは中世甲奴郡の総社であった大宮八幡宮の神儀の進行順序をきめるための、むさし勝負に使われたという。

力石

23.jpg力石はむかし若者たちが、力くらべをするのに使用したものである。この石は長径約45cm、短径約40cm、厚さ約20cmの扁球形で、重さは83.5kg。表面はなめらかで、手がかりになるものはない。昭和初期まで使用されたという。

須伍神社の的弓祭

24.jpg甲奴町大字小童須佐神社に江戸時代初期から伝えられている 弓神事で、例年1月7日の午前11時ころから行われる。神官が、弓と矢を打ち鳴らして悪魔を呼びこみ、最後に悪魔の眼に見立てた的を射て悪魔を退散させ、無病息災を祈るという伝統ある神事である。

福田のヤマザクラ

25.jpg目通り幹囲2.1m、板囲2.2m、樹高約20m、地上約3mで3本に枝分れして樹冠を形成、枝張りは東西約12m、南北約15km、推定樹齢170-200年、開花は4月下旬一5月上旬。