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須佐神社御由緒

須佐神社御由緒

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備後国三祇園
広島県三次市甲奴町小童鎮座

●御祭神
須佐之男命 (素戔嗚尊と呼ばれる)

●御鎮座の由来
四十九代光仁天皇の御宇 宝亀五年(甲寅)四月(七七四)、天下に疫病蔓延人心恐々たる時、小童(ちいさいわらべの意)があらわれて ”我は須佐之男命の化身であるが、当地は昔から自神の鎮座の地であるが、年積りて祭祀もすたれ、祀る人もないのが甚だ残念だ、今復活して我を祀るならば、この里人等は悪病に悩まされることは無いだろう” と託宣、その故を以て里人等上下心を協せ、社殿も建立御奉斎申し上げたと、文明元年麓城主綱時の記す由来記は伝えております。 然し再建が右の様な事情であって、創建はあくまでそれ以前の昔にさかのぼるものと推考されています。

●御神徳
この大御神様は、神代の昔より三貴子(神)のひとりとして天照大神、月読命とともに崇められる神様で、出雲系氏族の祖神であり、植林国土開発経営の英雄神で、人間に福祉を授ける神とされ、なお農神、疫神としても深い信仰をあつめています。

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●御社格
「延喜式神明帳」に記載されてはいませんが「三代実録」貞観三年十月二十日庚猿の條、天照真良建神並びに従五下位とある祭神をお祀りしてあるのがこの社で、式外五社の一つであると、備後の碩学馬屋原氏編する「西備名区」(文化元年編)に論証されています。有名大社とされながらこれを証拠だてる書類が無く、漸く昭和五年郷社に列格され、現在は神社本庁に所属しています。

●祇園信仰
往古より、”小童の祇園さん”と崇められ、鞆の祇園さん(沼名前神社)、戸手の祇園さん(素戔嗚神社)、と共に、備後の三祇園と称されて、世羅郡、甲奴郡はもちろん、北備五郡や遠く岡山県(川上郡、後月郡、哲多郡)の一部と、さらに日野郡にも及んで、一般の人々の尊崇を受けていました。”小童の祇園祭りに、田草取るな、稲で目を突きゃ目があがる”(つぶれるの意)と里謡にまでうたわれ、畏敬の念を以て信仰されてきました。そのよい例として、岡山県の信者等が奉納した大般若経千巻を有しておりますし、前述の郡、里に講社の制度をもうけ、神礼の配布を行っていました。現在もその名残りとし、小童須佐神社奉讃会を結成、二千有余名の会員をようして、報本反始の実を挙げています。

●御社殿
当社の御社殿は権現造り(八棟造)と称するもので、宝亀五年に創建せられ、亨禄三年修理を加え、さらに文禄三年甲午六月毛利輝元武運長久を祈って再建造営せられ、寛永二年八月浅野但馬守改造、現在のものは元禄九年再々建造されたもので、朱塗、彫刻等に江戸時代の神社建築が偲ばれます。昭和二十九年四月屋根を銅板葺とし現在に及んでいます。旧御本殿は下におろして小童神社の社殿として残し、大正十三年新たに御本殿を造りかえました。その他昭和五年御昇格記念とし社務所を新築、昭和四十五年七月祇園会館をも新築、参道舗装も同年行い、建物及び境内は整備されました

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●大御輿
祭神櫛稲田姫命(広島県重要文化財) 八角長柄構え、台車づき、反転屋根神輿、高さ3.4メートル、幅2.1メートル、重さ1.5トン、日本一の大神輿とされる。製作年代は永生十四年(一五一七)で、宝暦一三年改修、寛文八年北備五郡より戸別一文の寄付を得て台車に乗せたと、古記録が語っています。大祭には初日武塔社で休息、第三日目本社へ還幸と古い慣例に従って行事が行われております。お供は崇敬者が多数引き綱を引いて奉還します。寛文以前には、長柄になって神幸を奉仕したのだろうと推定されています。考察としてこの御輿の基盤側面にある剣どもえ文の模様が優秀であり、内部に心柱(大黒柱)のある事も非常に珍しく、室町時代の意匠を兼ね備えた逸品として昭和三十四年十二月三十日、広島県重要文化財に指定されました。

●神宮寺
奈良時代神仏混淆思想によって、必ずと言ってよい程、大社に神宮寺が併置されましたが、その例に漏れず当社でも神宮寺が置かれました。境内にある現宮司の宅がその遺構です。享保八年と慶応二年との火災にその記録類を焼失して、創建等明確にする事が出来ませんが、寺号を亀甲山感神院本願坊神宮密寺と称し、真言宗で社家伊達氏と共に祭祀を掌っていました。貞応時代(一二二二~二三)には既に神宮執事が事に当たっていたとの記録がありますので、恐らくそれ以前だと考えられます。なお元禄九年の幣殿建立棟礼に、導師今高野山法印大和尚亮雄とある事より、今高野山安楽院の末寺ではなかったかと思われます。規模については、”八間張りに一四間のけた張りの寺なり。水場、つり屋、あん、八、九間の小屋皆瓦なり”と残った記録がしめしています。さらに裏山にある七基の無縫塔和尚の墓によって、当時の神宮寺の権勢も知られますし、寄進石、燈籠等に右側上位にその名を刻されている事によって、神社支配での地位も自然と推測されます。明治初年神仏分離令により、廃寺となりました。

●祭祀
<大祭>
○古来七月十四日~十六日。昭和四十六年より、第三日曜日より三日間と変更
○行事
○初日  三体御輿渡御、矢野神儀、大御輿渡御
○中日  宵祭、ちょうちん行列
○三日目 三体御輿還御、氏子奉仕神儀、大御輿還御

<矢野の神儀>広島県重要無形民俗文化財

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昔の伝統を、子々孫々と受け継ぎ、甲奴郡上下町矢野の住民こぞって奉仕する神儀です。奉仕されるお方は氏子ではありません。それが何故にと不審に思われますが、その底には、深い因縁の故事来歴があります。即ち往古素神矢野を御通行、しばし茶屋にて御休息、そばの泉の水(この泉を今に祇園水とよぶ)を飲まれ、多くの里人の見送りを得て小童村へ入村なさった其の故事により、宝亀五年、命を奉斎した折、竹の葉に短冊を付け神事を奉仕した事が起因だと、文明元年六月、神事発起人玄司なる者の記録が残っています。その神事が、時代の変遷に伴い、工夫を凝らし、現在のような大規模で、華麗な神儀になったものと思われます。二〇〇人以上の人々が、子供太鼓打ち、獅子舞、大神楽、屋台、宿入りと一団となっての入魂の奉仕は、祇園祭の圧巻であり、参拝者をして驚嘆自すと襟を正さしめるものがあります

●特殊神事
<的弓祭>
普通に「まとう祭りと呼ばれ、年明けの松の内の一月七日、日の出の刻に古くから行われましたが、現在は午前十一時を期して斎行いたしますが、悪魔払いの神事で弓は天之鹿古弓、矢を天の羽々矢と申す当社伝来のものを用い、場所も当社境内横下の”まとう畑”と呼ばれる畑を使用します。起源については明確にする資料が伝わっていませんが、宝暦七年(一七五七)に書かれた「小童祇園社由来拾遺伝」に、すでにこの祭りが行われていたことが記録されております。矢の射られた後の若松の枝のうばい合いも、信者ならではの光景を呈し、一年中の厄災を祓う意味で、近郷近在より多数の参拝者が年頭の境内をうずめます。

<忌刺祭>
この祭祀は、昔から例祭月に入った七月一日に行われます。忌を串で刺す意のお祭りで、”今日から例祭の終わるまで一切の忌、穢が無い様に”との祈願の後、榊に御幣をつけた串を、現在は宮部部落だけ配布していますが、往古にはこの串木になる榊も青近(世羅郡甲山町)の岩立山から採取する事になっており、立てる場所も、西野・宇賀・戸張・青近の各村境へ立てる事に定っていたことが、天保七年の「小童祇園社祭式歳中行事定書」に書かれています。

●境内地
約九二アール(内平坦部二〇アール、山林部七三アール)

●境内社十二社
◎客人神社
祭神
豊磐はまど 櫛磐はまど
◎伊勢神社
祭神
天照大神 外九神
◎合併社
祭神
天御中主神 外十二神
◎小童神社
祭神
足那槌手那槌神
◎厳島神社
祭神
市杵島比売命
◎日吉神社
祭神
大山昨神
◎金神社
祭神
金山比古神
◎水波売神社
祭神
水波売神
◎大荒神
祭神
須佐之男命
◎疫除神社
祭神
須佐之男命
◎祖霊社
祭神
伊達霊神
◎祖霊社
祭神
宇賀濃武丸城主矢田氏の先祖
参考文献: 須佐神社御由緒 (須佐神社社務所、須佐神社奉讃会 発行)