矢野の神儀
広島県無形民俗文化財「矢野の神儀」
矢野神儀(小童祇園社絵巻)
現在の矢野の神儀は、一番片屋組・二番宇根組・三番郷組・四番芦尾組の四組で、須佐神社の祭礼に出仕している。 以前はそれぞれの組から出発していたが、現在は小童の峠地区に参集し、そこから順に練っていっている。神儀総代を先頭に、監督一二人が各組を指揮して進むが、約120戸の矢野地区では一戸残らず参加することになっており、四組の総勢は毎年160人~170人である。
各組ともおおむね監督・幟持ち・獅子舞・太鼓(太鼓打ちは子供の役)・鉦・屋形の順に進む。郷組、だけはこれらに加えて唐団扇役・槍役・先箱役・大傘役・烏毛役・羽熊役の合わせて二八人が先頭に立ち、そのあとを獅子舞役四人・笛吹三人・手拍子すり三人・ほら貝吹き一人続く、これらは宿入り(しゅくいり)といって独特の採り物の操作と足運びで練って進む。
神儀拍子は、組ごとに道行き・休息所・須佐神社・御旅所と、それぞれの庭でしゃぎり、三つ拍子・四つ拍子・渡り拍子・大神楽(本極・両極)・打ち切りと、各組が伝承してきた手順どおりにそれぞれ異にした拍子を打つ。いずれも太鼓の飛び打ちや入れ替わりの回り打ち・舞い打ちなど、変化が激しく勇壮な打ち舞いを見せる。
獅子舞は、古来、矢野の「投げ獅子」といわれているように、左右に激しく飛び交って舞う。炎天のもと相当な体力を要する役である。
四人で担ぐ屋形には人形を立てる。それぞれの組の芸題帳によると、片屋組は忠臣蔵にちなんだもの、郷組は有名な昔話によるものというように、毎年趣向をこらして変化を見せている。これらが順次神儀練りして宮入りし、境内でひとしきり庭打ちして休息する。午後二時半。神輿三体が御旅所の武塔神社へ渡御するとき、各組はそれに従って神儀練りして渡御し御旅所で庭打ちする。矢野の神儀はここで打ち止めとなる。
(上下町史民俗編を抜粋)
「矢野の神儀」の沿革
宝屯五年(七七四)六月一四日、当村より(矢野より小童祇園社への意)竹の葉に短冊を付け神事致す事。神事発起人玄司。
- (1)天禄元年(九七〇) 六月一四日、紙幟の広きを用いる。此の時神儀打ち始めという。
- (2)貞元二年(九七七)大論ありて打時定まる。九ッ半(現今の午後一時)当村出発、七ッ半(現今の午後五時)祇園社より武搭杜に神儀を行う。
- (3)建仁二年(一二〇二)幟を縄に改めて捧ぐることとなる。
- (4)正保二年(一六四五)笹の葉短冊幟を鶏の羽根に改む。この儀は萬治三年(一六六〇)庄屋吉右衛門の記録にあり。
- (5)萬治三年(一六六〇) 祇園杜より武塔天神の旅所(帰り調)には、太鼓拍子は渡り拍子のみとなる
- (6)天和三年(一六八三)六月より屋形を用いる。 屋形の中に人形を立つるは、上方(京都)の「だんじり」を真似て作ったもの、屋形と称するは矢野神儀に限るとあり。
- (7)享保元年(一七一六)ころ、片屋組屋形を始めて作る。
- (8)正徳三年(一七一八)福泉寺の志んがく上人、京都よりしゃぎり拍子を習い帰りて、この年郷組しゃぎり拍子を始める。
- (9)宝暦元年(一七八六)ころ、宇根組へしゃぎり拍子をゆずる。
- (10)安永八年(一七七九)渡り拍子を、郷組大神楽に改める。
- (11)天明六年(一七八六)字根組屋形を組み始める。
- (12)文化八年(一八一一)郷組と宇根組前後争いをなす。その結果、小童の峠の堂より祇園杜まで宇根組先、御旅所へは郷組先に立つ。
- (13)文政元年(一八一八)郷組宿入(昔の大名行列の模倣)を始める。
これ以後の改正は省略する。
(矢野村誌を抜粋)