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祇園社領四箇保

祇園社領四箇保 近藤昭夫


京都八坂神社が所蔵する「八坂神社文書」は、祇園執行職であった宝寿院伝来分と慶応四年(一八六八)に宝寿院繁継が還俗した社家建内家の所蔵文書(文書が社家の譲与家産として相続された)が、昭和五年(一九三〇)神社に寄贈されたものである。
元亨三年(一三二三)の「社家条々記録」に承徳二年 (一〇九八)、堀河天皇より祇園社へ寄進された四箇保の記述があり、古代後期から中世にかけて祇園社の根本神領となっていた。


四箇保について(記述名称などは「甲奴町誌」による)
一 備後国小童保(広島県三次市甲奴町小童)開発は祇園感神院大別当勝尊で保司職となる。
地域内の武塔神社は牛頭天王(武塔神)が祭神で立保以前から鎮座していたと思われる。須佐神社は創建が宝亀五年(七七四)と伝承があるが武塔神社と思われ、おそらく立保後に勧請されたようである。小童の祇園さんと呼ばれる。
応仁の乱後、文明十七年(一四八五)の記録を最後に保は崩壊していった。

一 丹波国波々伯部保(兵庫県丹波篠山市・旧多岐郡地域内)
開発は祇園感神院大別当行円で保司職となる。立保後国司の収公があり大治五年(一一三〇) に復活した。
承久三年(一ニニ一)波々伯部氏が下司職となる。戦国末期に三好氏の勢力下で保は崩壊。
地域内に波々伯部神社があり、創建は貞観年間(八五九~八七七)及び天徳二年(九五八)とも伝承されるが立保後に勧請されたと思われる。丹波の祇園さんと呼ばれる。

一 近江国坂田保(滋賀県長浜市細江町)
開発は祇園感神院大別当勝尊で保司職となる。最初は犬上郡内に立保したが別所難済になり細江郷内を保の代わりとした。建久八年(一一九七)細江保の立券宣旨を受け細江荘となる。
嘉元四年(一三〇六)には興善院領、元応元(一三一九)に日吉神社所領、文安元年(一四四四)ころには正親町宰相家領となり後には祇園保と称した。長浜市祇園町あたりである。祇園町には八坂日吉神社がある。早くに祇園社領ではなくなった。

一 近江国成安保(滋賀県東近江市蒲生町日野)
開発は祇園感神院大別当行円で保司職となる。蒲生上郡内に守富保、山上保、宮河保がある。
鎌倉、南北朝、室町の各時代に押領や相続相論があり、延徳四年(一四九二)の記録を最後に保が崩壊した。宮川町に八坂神社がある。


承徳の四箇保寄進と背景
奈良時代の養老七年(七二三)に、土地を開墾すれば三代に限り土地の私有化を認めた三世一身法が定められたが、二十年後には廃止され天平十五年(七四三)新たに墾田永年私財法が定められた。公地公民であった制度が開墾によるものは私有地になることにより、時の藤原氏一族が免税特権のある功田や勅使田制度を援用して私有地を増やし国有地も私有地化された。
藤原氏に私有土地を献上し自分は代官として免税の特権を得るという地方地主が多出した。荘園の始まりである。このようにして、藤原氏や有力寺社が免税特権を得て栄えたが、国の税収は激減し破綻に向かった。
その後、醍醐天皇の延喜二年(九〇二)、後冷泉天皇の寛徳二年(一〇四五)及び天喜三年 (一〇五五)に荘園整理令が出されたが摂関政治の時代であり効果が少なかった。
治暦四年 (一〇六八)に後三条天皇が即位。後三条は藤原氏を外戚としない天皇で親政を行った。
延久元年 (一〇六九)に記録荘園券契所を設置し荘園整理令を出す。荘園の整理を国司に任せず中央の記録荘園券契所という役所で荘園整理を行った。荘園を取り上げ国衛領(公有地)とする目的であり、摂関領を含む多くの荘園が公領となった。藤原氏と距離を置く考えを持っていて、延久四年 (一〇七二)に白河天皇へ譲位し院庁を設置して上皇となるが翌年崩御する。院政の予定であったらしい。
白河天皇は応徳三年 (一〇八七)に八歳であった堀河天皇へ譲位し上皇となり院政を開始した。堀河、鳥羽、崇徳天皇の三代に渡り院政を行い大治四年(一一二九)七十七歳で崩御。上皇は嘉保三年 (一〇九六)に出家し法皇となる。
父の後三条天皇と同じ家格にとらわれない人事を行い、強訴に対抗のため北面の武士を設置した。白河、堀河天皇とも藤原氏を外戚とする。
堀河天皇は承徳二年 (一〇九八)の祇園社寄進時に二十歳であり白河法皇の院政期であるが、関白藤原師通とともに親政を図っていた時期であり法皇もこれを許容していた。
嘉保二年 (一〇九五)祇園社祈願の履行で、承徳二年 (一〇九八)の四箇保寄進は堀河天皇の勅願であると思われる。承徳三年(一〇九九)に関白師通が急逝しその八年後嘉承二年(一一〇七)堀河天皇が崩御。摂関政治が院政に替わる時期にあたる。その後鳥羽、後白河天皇の院政と平氏の武家政治を経て、中世には荘園形態も順次変わっていき、鎌倉、南北朝を経て室町の戦国期を持って荘園は崩壊した。


保について
平安時代後期(十一世紀後半)から中世にかけて「保」と呼ばれる新しい所領単位が登場した。人名や地名を冠して呼ばれ、荘、郷、別名と並び中世を通して存在した。
開発者は立保の申請を行い保司職となることが多い。在地領主とは限らず、有力寺社の僧侶や神官、知行国主や国守の近臣、中央官司の中下級官人など、在京領主と称される官司や権門関係者も多かった。開発と経営の成否は保司職の手腕に依ることが大きく、開発や権限である勧農権と官物収納権の行使や、保民である住民組織の掌握などや徴税請負と相応の功力が必要である。
四箇保は在京系の京保の一種であり、便補の保で立保しており国衛が封物確保の義務を免除される代わりに便補の措置のために祇園社感神院側に認めたものである。保司職は祇園社神人として高利貸しの活動を行い、蓄積や所領荘園の収取物や受領の任中に収取物の活用を行った。
中世の「八坂神社文書」には、祇園感神院四箇保の内小童保を除く三箇保は元久二年(一二〇五)までに次々と官宣旨や院庁下文により、国使不入・勅院事国使免除とされ準官省符之地とみなされるようになる。下って永和三年(一三七七)の文書目録では、成安保、小童保、波々伯部保の三保がみられ、特に波々伯部保は独立して詳細な整理がなされていて、重要な所領となっている。
祇園社の所領は文書上「社領」として出てくるが、実際には社僧間の譲与対象となるものがあった。文書も同じように社家の家産として相続されたとみることができる。


参考資料
中世祇園社文書の特質 田中誠
神々の美の世界 京都国立博物館
甲奴町誌 甲奴町誌編纂委員会
小童村誌 小童村誌編纂委員会
地方における牛頭天王信仰の受容と展開の一考察 鈴木耕太郎
保の形成とその特質 義江彰夫
角川日本地名大辞典(旧地名編)
便補保の成立について 勝山清次
逆説の日本史 井沢元彦
天皇の歴史 西東社