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月別の行事とその考察

郷土の年中行事と方言

郷土の年中行事

時代の流れとともに移り変わってきた年中行事は、郷土の人々のくらしと歴史を物語る貴重な文化遺産である。それは、長い封建社会を生き抜いてきた民衆の、苦しい生活の中でのささやかな慰めであり彩りでもあった。 戦後、生活様式の急激な変転によって、こうした古きよき行事が一時途絶えたかにみえたか、近ごろ各地で再び見直されようとする気運が盛り上がりつつあることは喜ばしい限りである。 このような特に、先祖から伝え継がれてきた郷土の年中行事を記録考察することは大いに意義かあると考えてこの仕事にとりかかった。しかし、自分で直接体験したのはせいぜいヒト余年あまりであり、それ以外のことは先輩、古老の口伝や、近親者の思い出話による記憶に頼るほかはない。したがって、確かな文献をもとにして記録したものでないために多分に不正確なところもあり、また一部地域に偏したものになったことを予めお断りしておきたい。これをもとにどうか存分な手直しをしていただくことをお願いする次第である。 梶田寿楽会 岡本 諍記  向井 頼幸

 

月別の行事とその考察

一月

・一日「元日」

― 若水 ―
 暗いうちに起き出て礼服に身を清め若水を迎える。水桶は杉、桧材等で造ったものを用い、水汲場には七五三繩を張り、水を汲んで元日の煮炊用水とした。若水を汲むのはたいてい男子の家長とされていたが「これは男尊女卑の思想だけでなく、一家の生計の責任者としての意味があったと考えられる。 昔は一家揃って正式の屠蘇の祝膳に着き新年の挨拶を交わしたというが、そのような厳格な家風を守る家はこの地方ではあまり見うけられなかった。ただ、若水で沸かした茶を飲んで歯固めの干柿を食べる風習はかなり近ごろまで行われていたようである。

― 初詣 ―
 古くは「恵方詣」といって、歳徳神社へ初詣をしたと伝えらわているが、この地方では氏神詣が普通であった。八幡神社では宮司が参殿して祝詞を奏上し年頭の儀式を行った。近年では氏子総代の配慮で参詣者に御神酒が振舞われる。 梶田養光院では除夜の鐘百八つが撞かれ。本郷では八幡神社の鐘が撞かれた。若者達か鐘撞堂に集まり鐘撞きに加わった。 そのほか、農業の祭神として出雲大社参詣(この地方では三良坂分院)、商売の祭神として備中最上稲荷への参詣もあった。近年は自家用車での初詣が急速に増えたようである。

― 年賀訪問 ―
 元日には近親者や特に世話になった先への年賀訪問が行われたが、最近では正月三が日の内に行われることが多い。また集落毎に互礼会が催されるところもあり、昔のような戸別訪問はほとんど見られなくなった。戦前年賀客の多い家では、女はこの応接に早々から休む間がないというので、予め日時を定めていたようである。これは、当時「かな親」 「かな子」の風習かおり、父親に早別れした男子は、その土地の懇意な有力者に契約親を依頼して諸事を相談し指導や援助を受けた。家によってはかな子(子分)数人を抱えていて年賀客に忙しかった。このならわしは昭和初期に至って次第に減少し、戦後は全く消滅した。

・二日「書初め」

 この日に習字をすると字が上達するというので、子供達は毛筆で清書して神棚に供えた。この書初めは十四日のとんど(左義長)の時に焼き、高く舞い上がると習字の手が上がると言われた。こうした行事も一時下火になったが、最近また各地で復活しだしたようである。

・三日「焼初め」

 この日から餅や魚などを焼いてもよいとされていた。一日、二日に焼き物をすると火難に遭うといって焼くことを避けた。そのほかにも、正月餅をアンビー(餡人り)にすると腫物が出来るという言い伝えもあった。このことは今でも行われているようである。そのほか、年の初めの禁句など古くからの俗言や迷信はかなり今日でも信じられているものもある。

・四日「山入り」

 恵方(明き方)へ初人山して男子の数だけ松の木を、女子の数だけ広葉樹(コナラ・アベマキ等)の木を伐って持ち帰り、この木を田植時のサンバイの燃料に用いたと言われる。

・五日「鍬初め」

 田の一隅に「サカキ」を立てて注連縄を張り、田の神を祭って供物をし初鍬入れをした。

・七日「七草雑炊」

 この朝七草を入れた粥を炊き神仏に供えた。七草といってもいわゆる春の七草ではなく、セリやナズナ・カブラ・ダイコンのほか畑作のネギなどの野菜を入れた雑炊を食べれば悪病を防ぐといわれた。 この粥汁の中に稲の品種名札をつけたススキの穂を浸し、それに籾をまぶしてその数の多い品種をその年の作付品種に決める者もあった。 また、秋の稔りの際、よい穂だけを抜穂して大切に貯蔵しておき、正月のこの時期に一穂ずつ丁寧に掌で扱いで種籾にする篤農家もあった。

― マトーサイ(的射祭) ―matosai.jpg
 小童須佐神社の正月七日の恒例祭事で近郷からの参詣者も多く、宮司が射た的に飾った松を持ち帰るとその年は無病息災だといわれている。

・十一日「鏡開き」

 神仏に供えた鏡餅を切り割って焼いて食べる。この鏡餅の干割れの程度でその年の干害を占ったという。またこの餅を細かく切ってアラレを作って保存食とし、炒り豆や炒り米を混ぜて砂糖をまぶした「ホトギ」を作るのにも用いられた。

・ 「百姓始め」

 降雪の多いこの地方では実際の農耕は困難なため、田に出て鍬を十二回打つたという。また、牛を飼う農家では牛にも心をこめた飼料を与え、中には雑煮を与える家もあった、

・十四日「左義長(とんど)」

 注連縄やウラジロなどの正月飾りを下ろし、青竹を立てて小集落毎に焼いた、青竹のパチハチとはじける爆音が響き、書初めと火の粉が冬空高く舞い上がった。青竹の先に挾んだ餅をとんどの残り火で焼き神仏に供え。後で分けて食べた。この餅を食べると風邪を引かぬと言われた。また、とんどの倒れた方角の家にはその年に子供が産まれるとか、焼いた餅がふくれると、若い嫁のいる家では「腹ふくれ」と言って懐妊の兆しがあるなどとはやしたてた。 正月飾りの中で掛け鯛だけは大事に保存しておいて春の苗代踏みの時に食べたが、電熱育苗の今頃ではそのような風習は全く忘れられてしまったようである。

― 「トラヘー」 ―
 十四日の夜手拭いで頬かなりをした若者や子供が「トラヘートラヘー」と連呼して家々の戸を叩いて廻った。投げ入れた小笊に餅・干柿・みかんなどを入れて貰った。 「トラヘーの姿を見つけたら水をかけろ」と言われていたので、声だけ出して物蔭に隠れたという。とんどの夜の若衆の楽しい遊びの一つであった。

・十五日「小正月」 「粉正月」

 正月の半ばの日を小さい正月として祝ったものか、それとも粉食始めの日としたものか明らかでない。 梶田の下志蔭地に「幣が森」という地名がある。本郷宮ヶ迫八幡神社の神殿争いの際に、梶田の氏子がこの御幣を奉じて走ったが、これを追いかけた者が字木屋の地で奪い合いとなり片側だけをもぎ取られたという言い伝えが残っている。「幣が森」は「幣がもぎ」が訛ったものであろう。梶田八幡神社の宝物御幣の柄の中側に「片側もぎ取られ候」の字がありその地の一隅に虚空蔵菩薩の木像が安置された小宇が建てられている。なぜこの地に建てられたかは不明であるが、再度の堂宇改築後現在も本尊は木芯のまま残されている。この祭日には近隣の人々が粉を持って詣で木像の口辺に塗りつけていたことを記憶している。古老の口伝によると、梶田付近の水田一帯に当時「ヒール」 (ヒル)が多くて困っていたが、この虚空蔵安置後は絶えたという。

・二十日「廿日正月」 「麦飯正月」

 この日の夕食は麦飯を炊いて食べる慣しがあり、食後麦田に出て「麦飯食うて腹太やのう」と叫ぶとその年の麦は豊作になるとの古老の話がある。 「七草粥」 「粉正月」 「麦飯正月」と正月の日々の食事も日毎に変化して、次第に日常の粗食に戻るようになっていった。美味しい濃厚な御馳走を食べることの多い正月には七草粥のような軽食で胃腸を調整するというのは現代の感覚であって、昔はそんな生やさしいものではなく、飯料をいかに食い延はすかが、普通の農家にとっては重要なやりくりであった。古老から聞いた話によると、稲を収穫した際の未熟籾(シイラ)を貯めておきそれを水車に入れて粉にする。その中に少々つなぎ粉(小麦粉)を入れて団子を作る。勿論、籾の粉もそのまま混入したものである。これを「ハタキ団子」または「ハゴ団子」といった。「ハタキ団子でドエンギ(囲炉裏の椽)がちびる」と言われたのは封建時代の農民の悲しい俗言である。ドエンギに両手を掛けて飲み込まないと喉を通りにくいほどまずい食べ物であった。このはかにも季節の山菜や大根葉等を飯に混ぜて米を少しでも節約するように心掛けた。せっかく米を作ってもそれを腹いっぱいに食べられるのは正月か祭り位のもので、平日は粗食に甘んじなくてはならなかったのである。  当時、二毛作田(乾田)をもつ農家では、裏作に麦を作って、麦飯を食べた。特に、牛を飼う農家では麦作を重視した。もとより化学肥料などのない時代であるから肥料は専ら厩肥・草木灰・人糞尿が主であった。草木灰は、草がらや雑木の束を作ってパンヤ(灰小屋)で焼いたものを施した。人糞尿も自家製だけでは足らず、この村からも遠く上下の町まで汲み取りに出かけた。今ではし尿処理といえば高い金を払って業者に依頼する家が多いが、その頃は反対に金を出して買い求めるのが普通であった。これは金肥のなかった戦時中も続けられた。 麦作は食糧難の戦時中は勿論のこと昭和三十年代まで盛んに行われ、子ども達も学校から帰るなり麦刈りの手伝いに精を出した。小麦や裸麦も作られたが、ほとんどが大麦で、これを精白し米に混ぜて主食にした。麦飯といっても米よりも麦の割合が多いこともあったが、ハタキ団子など比べものにならぬほど美味しかった。その上麦糠は牛や鶏の飼料になり、麦藁は駄屋の敷藁になった。

・三十一日「送り正月」

 長い正月の最終日で、正月の名残りを惜しむ日である。神棚に供えた昆布・吊し柿・餅花などの飾りをこの日に下げる家が多かった。このほかに昭和の初期までの郷土行事として「日待ち」があった。小集落ごとに一戸一人ずつ夕刻から当番家に集まり酒食を共にして雑談を交えて夜を明かした。(日待ちの馳走はコンニャク入りのケンチン汁が添えられた。)神官を招いて翌朝の御来迎を拝し早昼後に解散したが、その上うな正月行事も今では全く廃たれてしまった。 正月の遊びとしては女児の羽根つき、手まりつき、おじゃみ遊びなど歌に合わせて競うのとかな遊びがあった。男児は凧上げ、こま回し、ぺッチ遊びなどに興じた。青年男女が集まってカルタ会、花札、トランプ遊びなど夜を徹して続けられた。男女の公然とした交遊の場であった。しかし、こうした遊びも戦時体制激化に伴って次第に衰え、戦後はテレビの普及などの影響ですっかり影を潜めたようである。 このように、ほかに何一つとして娯楽のなかった時代には正月一か月の間にも次々と「OO正月」といった休日があり、人々は忙しさを忘れてひとときの骨休めを楽しんだが、普段の日は、いかに農閑期とはいっても、縄ないや筵織り、草履作り等の藁仕事や田地の新開、年中のくべ木作りなどの仕事に余念がなかったのである。

二月

・一日「一日正月(ヒテーショーガッ)」

 この日はトシトコサン(歳徳神)の帰還の日だというので神に供える餅を槍き仕事を休むならわしがあった。

・二日「ヤイトー正月」。

 この日に灸を据えれば年中無病息災であるといわれた。

・三日、四日頃「節分」

 悪鬼を払う行事として家庭では主人が中心となり炒った大豆を「福は内、鬼は外」と唱えて播き、神前に供えた。夕食にはイワシを焼いて食べ、その頭を竹串やサンショウの枝に刺して門口に立て悪邪・病魔除けの呪いとした。この日は「厄除け参り」といって氏神へ参拝祈願する家もあった。 イワシといえば、ブエン(生イワシ)もあったが、大方はヒトシオ・フタシオ(塩イワシ)が普通で、多くは竹籠に入れて茶褐色になったカゴイワシを麦飯に添えて食べた。あまりの辛さに舌がしびれて喉を引掻くようなイワシで、今ではとても食えたものではないが、蛋白源の少ないその当時は何よりのご馳走であった。交通機関と冷凍技術の発達した現代から考えると、まさに隔世の感がある。

・八日「針供養」

 婦女は縫物を休んで、折れたり錆びたりした針を豆腐に剌して供養した。戦前までは女子の裁縫習いが盛んでこの地方でも私塾のような家も多く、そこを中心として当日は小豆飯を炊いて盛大な供養が行われたらしいが、今では全く見られなくなってしまった。

・中旬「旧正月」

 明治五年に現在の太陽暦が採用されるまでは、年中行事はすべて旧暦によって行われ、正月祝いもこの日が中心であった。新暦になっても旧正月の行事は新正月と同
じように祝われたが、戦後は次第に行われなくなったようである。 そのほか、三月三日の雛祭り、五月五日の端午の節句などもこの地方ではひと月遅れで行われるのが普通である。これは慣例上旧暦の季節に近いことから考えられたものであろう。

三月

・二十一日「春の彼岸」

 この日はヨモギの新芽を摘んで搗いた草餅やおはぎを作って仏に供え、(彼岸団子) 親類縁者も訪れて墓参りをした。現在は春分の日として国民の祝日となっている。

四月

・三日「雛祭り」

 女児の祭りであるが、この地方ではデコ人形(三次土偶・上下土儡)を誕心祝いとして、普通初節句のこの日に贈るならわしがあって、当日はこれを飾り、贈り主を招待してお祝いをした。今では土偶櫃(でこびつ)に収められた士まま土蔵に限ってたり、とっくに廃棄されてしまった家が多いが、当時は桃の花をいけ、白酒と紅白の菱餅を供え、子沢山の家では床の開狭しと土偶人形が飾られたものである。この土偶人形は戦時中頃から製造されなくなったために、雛を画いた掛軸を用いられたが今では豪華な何十万円もする雛壇が贈られ、見かけだけは往時以上の華やかさとなったが、何か淋しい気もする。 この日、梶田の粟島神社では春季大祭が行われた。大祭には子供や大人の奉納相撲がおり、近在の参詣者で賑かった。この大祭は戦時中祭主の不在や社殿の崩壊等のために中止されていたが、近年再び信者の熱意によってかつでの面影を取り戻しつつある。

・八日「花祭り」

 釈迦の誕生日で、禅宗寺では祭壇を作り大半切の中に釈尊の像を立て、甘茶を煮てこれに注ぎ、善男善女の参拝があった。この甘茶を持ち帰って病痛の個所に付け平癒を祈った。

・下旬「苗代踏み」

 この頃から農家では水苗代作りが始められた。

五月

・五日「御霊会」

 端午の節句ともいい、男の子の祭りとして仕事を休んで祝った。男の子のいる家では鯉幟りや武者絵を染めた木綿の大幟りが立てられたが、それも一部の家だけだったようである。この幟りも戦時中矩燵布団の表地に縫い変えられたりして姿を消し、それに代わって今ではナイロン入りの鯉幟りが五月空を威勢よく泳いでいる。
 この日はショウブとヨモギを軒に挿して火難を払い、ショウブ酒を飲み、ショウブ湯を立てると病気にかからないと言われた。カシワ餅やチマキを作って食べるのもこの日のならわしであった。

・下旬「サンバイ」

 田植始めに祭る田の神の祭りで、五月の卯の日を選んで行われた。新葉をつけた栗の枝を一束伐って藁帯をしこれに注連縄を張って苗代の一角にサンバイ柱を立て御幣を祀る。その前に卯の花を立て稲の稚苗三株を植えてイバ飯(イバノキ∥カシワまたはホオノキの葉に大豆飯を盛ったもの)を供える。この日は家庭でもこのイバ飯に酢サバとミョウガの味噌和えを添えて食べ、田植の安全と豊作を祈った。
 サバはちょうどこの季節が旬で、この地方にも腹に卵をもってよく太った山陰物が送られてきた。田植時の食膳の唯一の珍味であった。この山里では、年中に食べられる魚といえば、節分の塩イワシ、五月頃のワニの灸り串、サンバイの塩サバ、初秋の塩マンサク、正月のブリくらいであった。それに、昭和の初め頃から干した棒ダラや塩ザケなども入ったが、なま物はばとんどなく、たいてい‐持ちのよい塩漬けや干物であった。
 田植も最近機械植えに変わり、時期も約一か月以上も早くなるにつれてこの床しいサンバイの行事もいつか姿を消してしまった。

六月

・中、下旬「田植」

taue.jpg 六月中下句は、農家にとっては片時も休か間もない忙しい時期であった。田植・麦刈りはもとより、養蚕農家では春蚕の上簇時でもあった。この集中する農繁期をなんとか分散することはできないものかと誰もが考えたものだが、そのうちに農機具の急速な発達に加えて、絹糸の暴落による養蚕の衰退などもあって、かつでの多忙さは今や過去の語り草となってしまった。しかし労働は楽になったが、古きよきものが次々と忘れ去られていくことは淋しい。 田植は、昭和の初め頃まではテッキ(餅焼具の足のついたものの様な仕組)を回転させて、上手者は一人一台初心者は二人で一台をもって点所に植えて後へ退く方法とか、三角形の枠に釘の印がついたものを転がしながら一人又は二、三人で植えていた。その後、綱田正条植えという長い綱を引いて植える方法が奨励されだして植手の人数が必要となり、いきおい各地で共同田植が行われるようになった。やがてそれは、共同苗代、病虫害の共同防除から共同炊事にまで発展していった。 ソートメ(早乙女)が十数人も並んで田植唄もにぎやかに綱に沿って植える様は実に壮観であり、談笑しながらの共同田植は、腰の痛さを忘れさせる何よりの交流の場でもあった。 しかし、戦争の激化に伴って農村の人手不足は次第に深刻になり、学徒の農作業動員などでなんとか切り抜けなくてはならなかった。さらに敗戦を期に農業の様相にも次第に変化が起こり、田植も筋引きの前進田植になって共同作業も減っていった。 その後、耕耘機・トラクター・コンバイン・田植機などの農業機械が次々と導入されて、牛も人手も不要になり、共同作業は全く姿を消してしまった。その上農機具の過剰投資によるいわゆる機械貧乏の現象が生じ、農業収入だけでは生活が困難になり、減反政策による増産意欲の減退からほとんどの農家が片手間百姓に変わっていった。将来は農地の基盤整備に伴って大型機械による協業または委託農業や請負耕作へと変わっていく傾向を見せている。共同作業が消滅すると同時に、かつでの「代みて」や 「泥落とし」などという懐しい行事もほとんどなくなり僅かに広域的に形ばかりの呼びかけが行われているに過ぎない。

七月

・初旬「半夏」

 七月の二、三日は暦の上で半夏生といって、夏入りを祝う日であった。「半夏半作」といって、田植もこの時期までに終わらないと秋の稔りが半作になると考えられていた。この日は、朝草刈りや水田の見回りなどを済ませて午後半日は仕事を休んだ。ちょうどこの頃が梅雨の終期で「半夏水」という大水が出ることが多く、水田などの水害対策は毎年この時期の重要な仕事の一つであった。甘酒を作って飲み、盛夏の健康を祈った。

・七日「七夕祭」

 牽牛星と織女星か年一度のこの夜に天の川を渡って出会うというロマンから生まれた行事で、竹の笹に願いごとを書いた短冊を結んだ幼い日が懐しいが、今では家庭行事としては全く行われていないようである。

・ 「田の草取り」

 七月と八月は雑草との戦いであった。特に稲作はヒエ(イヌビエ)やゴンパナ(コナギ)など草退治の連続で大人たちは毎日水田に出て四つんばいになって草取りに精出した。田の草取りのことを「田の草を這う」といったのはこのことである。殊に真夏の炎天下の草取りは最も辛い重労働であった。ギラギラと照りつける炎熱を少しでも和らげようと背に青草を負ったり背蓑をつけたりした。稲の葉先が顔を刺し、体中から流れ出る汗が水の上にしたたり落ちた。「暑やほがるや手拭いほしや、せめて殿ごの袖なりと」と唄われた俗謡の通り汗びっしょりになる苦しい作業であった。ちょっと油断しているとヒエかすぐ頭をもたげるので、一番草、二番草、止め草と最低三回は稲田を這わなくてはならなかった。 共同作業や手間替えの催合い仕事は、苦しさを分かち合うせめてもの慰めであった。だが、昭和の初期頃から八反ずりをはじめ、さまざまな除草機が改良され、さらに戦後は二四Dなどという除草剤が開発されて、田の草取りの苦痛から解放されることになった。しかし、共同作業の楽しさは姿を消し、加えて農薬公害が大きな社会問題になったことを思うと、仕事こそ便利で楽にはなったが、はたしてこれでよくなったといえるかどうか、考えさせられる問題でもある。

・十四日~十六日「祇園祭」

mikosi.jpg 十四日から三日間は小童須佐神社の祇園夏祭で、近郷近在から多数の参詣者で賑わった。 この祭りは古くかこ行われてきた余りにも有名な大祭であり、テレビなどでも度々紹介されているので内容や由来については省略するが、露店が軒を連ね、矢野神祇や大御輿か繰り出して華やかに行われた。 特に初日の十四日は、どの家も什事を休んで参詣した。十五日夜は本郷地区から神殿入りも行われた、勤め人の増えた現在では、七月の第三日曜日を祭日と決められている。

・下旬「土用干し」

 七月下旬の土用丑の日は、家族の衣類を箪笥から出して虫干しをした。大切な着物をかびやシミから守る年に一度の必要な行事である。今では強力な防虫剤ができたために、あまり見かけなくなったが、昔はトウガラシなどを衣料の中に入れて虫を防いでいた。紋付きの羽織や羽二重の白無垢などもこの日に出して干した。 また、この日は夏の暑気払いとしてニーナ(カワニナ)やウナギを食べた。ニーナは河川の汚染とともに漸減して今ではあまり食べなくなったが、養殖ウナギを食べるのは全国的に盛んになってきた。しかし、川で釣った天然のウナギに比べると風味は比較にならない。

・下旬「虫送り」

 稲を虫害から守るために、メイチュウの被害茎を抜き取って束ね、紙幟りを作って氏神に参拝して祈願した。その後、行列を作り鉦を鳴らして被害茎を村境まで送って捨てた。土用の入りから五日目の五節の日に、お寺から大般若経の入った箱を各組毎に担いで家々を回った。その後、講寺の僧侶数人によって経本の供養が行われた。戦後、強力な防虫剤の撒布によって被害は激減し、虫送りのような迷信的行事は全く行われなくなった。

八月

・ 「雨乞い」

 稲作に水が最も必要なこの時期に異常渇水が続くと、村々では祈祷をしたり千把火を焚いたりする雨乞い行事が行われた。千把火はたいてい各地区毎に行われた。一戸一人ずつ出て千把の雑木を集めて積み上げ、神官による雨乞い祈願をし、他の村々と予め打合せをして一斉に点火した。「竜王山」という山名が今も各地に残されているが、竜神は、雲を呼び水をもたらすと信じられていたことから、その頂上で千把火を焚いて雨乞いをする山であった。もとよりその効めが直ちに現われるとは信じ難いが、かつて近郷挙げて千把火の煙が空を焦がしたとき、一天にわかにかき曇りたちまち大夕立があって大喜びをした話が今も古老たちの語り草となっている。煙の粒子が空気中の水蒸気を凝結させて雨雲を発生させることは科学的にも根拠がないわけでもなかろうが、千把火にしても虫送りにしても多分に迷信的な行事である。しかし、飢饉の苦しみから免れようと願う当時の農民の切実な祈りがこめられたこうした行事を、無下に一笑に付すわけにはいかない。この地方では水の涸れた溜池の底などでも焚かれたようである。
 天保年問、梶田では再三の雨乞いも霊験がないため、最後の手段として養光院の梵鐘を栗ノ木淵に沈めて雨乞い祈祷を行ったという。七日七夜の祈願が叶い、ついに待望の慈雨に恵まれたが、このことについては不思議な囚縁話が今も残されている。淵から鐘を持ち帰って鐘楼に吊したところ、鐘の音が全く悪くなっていたのである。その後、この鐘は「養先院の鳴らすの鐘」として有名になったという話である。 この鐘は、国郡誌によれば宝暦七年(一七五七年)鋳造の由緒ある梵鐘であったが、雨乞いで音が悪くなったためか明治二十九年に新しく造り替えられた。序記によればこの時の鋳造師は宇津戸の丹下氏で、多数の信者が自分の金銀の髪飾り・家財の真鍋・仏具等を寄進し、寺院の東側平地に鋳炉を堀って、これらの金属を溶解鋳造した。近郷からの参拝見物者も多く、出店や興業まで出て極めて賑やかであったという。ところがこの鐘が大戦中兵器製造のために徴発されたので、戦後(昭和五十六年)三たび鋳造され現在に至っている。この時の作者は前記丹下氏の孫であった。

・十四日~十六日「孟蘭盆(うらぼん)」

 中国から伝来した精霊会は元々旧七月であったが、この地方では今でも八月十四~十六日に行われる。門先に松明の迎え火を焚いて先祖の霊を迎え、さまざまな供物を供える。禅宗では施餓鬼棚を作って燈明を上げ、キュウリやナスでこしらえた馬を供えたりした。この日、他郷に出た者が帰省して先祖の墓参をすることは今も昔も変りがない。寺院では特別な祭壇を設けて門徒の諸霊を招じて施餓鬼供養が営まれる。 この時期を中元といって世話になった人々への贈り物をするならわしは今も盛んに行われている。昔は一年を正月と盆とで二分してこの期に諸事を整理する慣例があり、繁忙のことを「盆と正月が一度にきたような」という諺の通り借金払いや仕事の整理に多忙な区切りであった。

・ 「盆踊り」

 年中多忙で娯楽の少なかった当時の庶民にとっては、盆踊りは夏の盛りの最も楽しみな行事の一つであった。戦時中は一時途絶えたかに見えたが、最近また復活して各地で盛大に催されるようになった。拡声機も電蓄もない頃は、広場の中央に櫓を建て、雨傘を持った音頭とりが自慢の美声を張り上げて「口説き」を唄った。口説きは「鈴木主水」 「石童丸」などの長い語り物がほとんどで、音頭とりは美声の上にスタミナの持ち主が多く、各地の盆踊りに遠征して名声を駈せ、近在の評判になった者もいた。

・二十四日「地蔵盆」

 各地に祀られているお地蔵様の縁日である。この日は小豆飯を炊いて供え、一日中線香の煙が絶えなかった。参詣者には甘酒や小豆飯の接待も行われた。

九月

・初旬「二百十日」

 立春から二百十日目に当るこの日は、ちょうど台風の季節で、稲の問花期と重なるので、八幡神社へ参って災厄払いの祈願をした。夜は神殿入りがあり、提灯行列をして各組から氏神社へ参詣した。粟島神社でも、春の大祭と同じように秋祭りがあり、子供相撲も奉納された。

・二十日頃「秋の彼岸」

 炎暑が去り、秋の草花が咲き始めてさわやかな季節を迎える頃、春の彼岸三川しように先祖の供養と墓参が行われる。中日は「秋分の日」として国民の祝日に定められている。近年は稲作が一か月以上も早くなったために早生種などは彼岸を過ぎると早速刈り始めるところもある。 梶田では大正末期に祀られた八十八ヶ所巡りが最近有志によって復活し、大師堂の清掃や遍路道の案内標識をはじめ、信者への接待なども見られる。往時の彼岸行事を偲ばせて何となく心温まるものがある。

・旧十五日「仲秋」

 仲秋の月を愛でる行事。かつては月見団子を供えススキの穂を立てて名月を迎えたが今ではあまり行われていないようである。いかにも風流な行事だが、多忙な収穫期を控えてのひとときの安らぎであろうか。 「放生会」も、仏教行事の一つで、この日は、この地方でも生物の殺生を禁じ、鳥獣や魚貝などを山や川に放した。明治の神仏分離後は「仲秋会」と呼ばれるようになった。この地方ではこの日焼米を作って神仏に供えたり
近親者に贈ったりした。 焼米は、水田のアタリクチ(水入日)などの青熟稲を刈り、穂を扱いで一日水に浸し大釜で炒って米が平らになるまで搗いたものである。(焼米のことをヒライコメというのは搗いて平たくするからであろうか)これに熱湯を注ぎ塩味で食べる。独特の香ばしい味がして季節感のある食物であった。 稲刈りが機械化してから焼米作りは一時途絶えていたが。最近ふるさと料理として店頭でもに見かけるようになった。

十月

 十月から十一月にかけては稲の収穫をはじめ葉煙草の収納準備・畑作物の取り入れなど秋の農繁の最盛期のため年中行事はあまり行われなかった。それでも稲刈り前の上・中旬に氏神祭が行われる所もあった。現在では上旬にはほとんど一斉にとり入れを済ませ、十日の「体育の日」を中心にスポーツ関係の諸行事が各地で盛大に催される。かつての農繁からこうした行事参加への多忙さに変わったのは皮肉なことである。

十一月

・ 「氏神社大祭」

 この地方の八幡神社大祭はほとんどがこの月に行われる。戦中戦後しばらく途絶えていた神祇「太鼓打」も復活し、将来も平和の象徴として長く続けたいものである。太鼓打の曲日は複雑多岐で、習得にはかなりの練習を要した。種日は油木進楽・敷尾進楽などがあり、古く神石郡方面から伝えられたのではないかと考えられる。 十日は梶田八幡神社の大祭で、戦前は九日が前夜祭で氏子は各家々から備え付けの提灯を持って太鼓拍子に合わせて神殿入りの行列で神社に参詣し、その夜は神楽が奉納された。翌日十日は子供による太鼓打の神祇が繰出し、親戚・村民総出で賑わった。なお、拝殿では四年目ごとに王子神楽が奉納された。この日は区内の児童は教師に引率されて拝殿前に整列礼拝した。村長や氏子総代も威儀を正して供奉し、村から幣帛料が奉納された。祭典は神主の祝詞奏上の後、御神体は御輿に移されて御旅所へ渡御し、祭事を終わって本殿へ帰還する、おごそかで盛大な神事であった。

・下旬「収納」

 旧甲奴村には以前広大な小作地があって、収穫された小作米の収納が日を定めて一斉に行われた。ある地主は本郷に豪勢な倉庫をもち、梶田地区だけでも百五十俵もの小作米が集められたという。当時、小作料は上田で坪五合、反当一石五斗(現在の三十キ口袋で七・五袋)で生産高の約半量であった。戦後農地改革によってこうした小作制度が廃止され、自作農の増加とともに生産意欲が高まったことは、郷土の農業にとって一大革命であった。

・二十八日「荒神祭」

 荒神は元来、火を司るかまどの神であったが、この地方では農神として屋外に祀られ、各小地区毎に祠に供物をして集合し祭事を催した。

十二月

・「大師講」

 この地方では主として弘法大師を祀る祠や石仏が各地にあり、陰暦十一月二十一日に講中が詣でて線香や花を手向けた。講員の読経後塗こ餅等を作って食べたというが、今ではその上うな風習は残っていないようである。

・下旬「冬至」

 昼の時間の最も短いこの日、これから迎える厳冬に備えてカボチャを食べて祝った。この日カボチャを食べると中風にかからないといわれ、今でも行われているが、野菜の少ないこの季節の何よりのビタミン源として栄養的にも効果があったと考えられる。

・下旬「正月支度」

 節季払いは、年中の取り引きや契約ごとの整理を済ませる大切な区切りで、金策・支払い・請求の人の訪問や行き来が、大晦日ぎりぎりまで絶えなかった。

・二十四日「ごろさ市」

 上下の町で正月買物を買い整えるために、この日から年末まで大勢の人々が市を上から下へと物色して連日賑わった。ダイダイ・ウラジロ・コンブなどの正月飾りやタコ・ハマグリなどの魚貝類をはじめ、大きな寒ブリもなくてはならぬ正月買物であった。特にブリは当時、米一俵といわれるほど高価なものであったが、正月中の最高の馳走で、内庭の天井から吊し、少しずつ切って客をもてなし、しまいには頭までも煮て食べた。

・「餅搗き」

 二十五日頃から正月の餅搗きが始まった。ただし、二十九日は「苦餅」といってこの日は搗かなかった。普通一臼二升で、家族や年賀客の多い家では十臼以上も搗いた。餅は餅米だけでなく粟を混ぜた粟餅、ウルチ米を混ぜだジャギ餅、大豆を入れたアラカネ餅、乾燥したヨモギを混ぜたヨモギ餅なども搗いた。朝、暗い内から火を焚いてせいろうで米を蒸す煙と、ぺッタン、ぺッタンと威勢のよい杵の音がどの家からも聞こえてきた。近頃では餅搗き機が普及して往時の懐しい音はほとんど聞かれなくなった。それどころか「餅は餅屋」の諺のように、店から買い求める家も多く、正月を目前に控えて張り詰めた風情は今や全く感じられなくなってしまった。

・「歳徳神迎え」

 その年の新藁で注連縄をない、神棚をはじめ、土偶神荒神・恵比須神・地神・水神などに飾った。家によっては歳徳神の履物を片方だけ藁で作り、柿の木へ吊り下げることも行われた。こうすると、その年には柿が豊作になると言われていた。 特に歳徳神を迎える神棚には注連縄に山草(ウラジロ)を下げ、中央に掛鯛とダイダイその脇に餅花・昆布・干柿・スルメ・ホンダワラなどを飾って供物とした。最近では、このような伝承は次第に消えつつある。

・ 「煤払い」

 家の大掃除は、普通五月上旬の畳干しと、年末の煤払いであったが、特に年末には天井や長押の煤やクモの巣を長い竹箒で掃き清められた。当時はどの家でも暖房や炊事の燃料は薪であったから家中に煤が溜まり掃除をすると顔や体がまっ黒になった。燃料革命後の現在では年末の煤払いはあまり必要がなくなった。

・ 「年越用食品作り」

 大豆を石臼でひいて豆腐やきな粉を作り、こんにゃくも自家製であった。年越そばも粉をこねて作った。今では、いつでも買い求めることができるために、作り方さえ知らぬ者が多くなった。

 

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