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人の一生に関わる行事

郷土の年中行事と方言

人の一生に関わる行事

○誕生・成長

・出 産

 妊婦は出産日近くなると実家へ帰って産むことが多かったが、二児・三児以下はたいてい婚家の納戸で出産した。産気づくと近くの産婆を呼んだり、産婆が間に合わない時には近所の経験者や家族の年寄りが助産した。馴れた産婦は自身で処理することもあったという。

・名付け、入籍

 出生後十日の間に名前をつけ、命名を書いた紙を神棚に貼って名付け祝いをした。しかし、これも二児・三児以下は行われないこともあった。 役場への出生届は、今と違って遅れる場合が多く、生年月日が十日や二十日違うのは普通であった。中には一年以上も遅れて入籍することもあったという。これは、産児が丈夫に育つかどうかを見極めてから届け出るという考えや、嫁の安定を見届けてから入籍するという、実に非人道的な考え方がその底にあったのではないかと思われる。

・誕生祝い

 生後一年目の祝いはとこても行われたが、二年目以後の誕生祝いは省略することが多かった。鏡餅を床の間に供え、それを子供に負わせてどれだけ歩けるかてその子の丈夫さを占った。また、筆・鋏・そろばんなどを置き子どもか先ず何全手にするかを9 て将来の職業や特性を占うことも行われた。 宮参りは、古くは男児三十二日目、女児児は三十三日目に行われていたというが 普通は誕生日に晴着を着せて抱いて参ることか多かった。

・七五三祝い

 三才・五才・七才を祝って宮参りをし、実家の親を招待して最近盛大に行われるようになったが、昔はこのような派手な祝いはほとんどなかったようである。

・成 人

 戦後一月十五日を成人の日と定められてから二十才になると一人前の大人の仲間入りをすることになったが、それ以前は、明治五年の徴兵令によって男子の徴兵検査が基準であった。しかし、当時から未婚の男女が自主的に集まり、農休の日などに楽しむことは行われていたようである。梶田天神山の社跡には当時青年たちが力比べをしたという力石が最近まで残されていた。 大正の中期になって青年団が組織され、夜学への参加柔剣道の鍛練などの活動が活発に行われた。梶田青年団では大河原の一部を開墾して稲を作り、その収入で「尚老会」を開催した。また、夏の野芝居や盆踊り、秋のとり入れ後の神楽等さまざまな行事を主催したこともあったが、戦争激化に伴い、青年団活動も軍事訓練を中心とした活動に変っていった。

○婚 姻

・婚 期

 昔は一般に早婚で、男は二十才・女は十五才を過ぎれば既に適令期と考えられていた。この地方でも昭和初期までは十六・七才で嫁入りするのは珍らしいことではなかった。少女のような新嫁が婚家の小姑たちと縁側でおじゃみ遊びに興じていたという話もあった。
 

・見合い

 現在こそ恋愛結婚が普通になったが戦前まではほとんどが見合い結婚で、恋愛結婚の場合はコロビアイ夫婦などと陰口を言われていた。明治初年までは、親と仲人が決めてから本人に伝えることが多く、中には婚礼の日まで互いに相手の顔も知らなかったという笑い話のような話がいくらでもあったという。正式に場所を定めて見合いをし、その後しばらく交際期間を置いてから仲人を通して返事をするようになったのは戦後のことである。 仲人には予め釣書や写真を持って来て下話をする世話仲人と結婚式の媒酌をする盃仲人(盃親)が別人の場合が多かった。世話仲人は双方から一人または二人ずつ立て、盃仲人は土地の古老や、いわゆる顔役と言われる人に依頼した。

・結 納

 話が決まると、吉日を定めて結納交わしが行われる。昔は、仲人が娘の家へ酒・魚などの現物を持って行ったといわれているが、次第に派手になり、目録に樽料・魚料・帯料等を書き、多額の結納金を、しかも、仲人だけでなく、本人・両親が揃って納めるようになった。また娘の家からは袴料として、結納返しをする場合も多い。

・荷送り

 婚礼前の吉日を選んで婚家への道具送りがある。昔は箪笥・長持ち・鏡など簡素なものであったが、これも次第に豪華になり、和箪笥・洋箪笥・鏡台・下駄箱はもとより、近頃では冷蔵庫や洗濯機をはじめ、テレビや乗用車まで送るようになった。また婚家では道具を並べて近所の者に何日も見せるならわしがあったので、娘に恥をかかせてはと、かなり無理をして支度を整える親が多かった。

・婚礼(祝言)

 今では専用の結婚式場を予約して盛大に挙行されるが昭和三十年代頃まではたいてい婚家を会場にして行われた。神前・仏前等宗派によって異なったが、普通夕方から始まり、夫婦盃の後、親子・親類の盃が終って披露宴が明方まで続けられた。 祝言の日は、近所の若者が集まって花嫁の行列の前に注連縄を張り、樽を置いて ろうそくを立て、身を隠していた。花嫁の親は、樽の上に祝儀の包みや酒を載せ、注連縄を外して通ったという。また、披露宴の最中にいくっもの石地蔵を担いできて縁側に置いて身を隠した。婚家では、酒を出して振舞った。花嫁が石地蔵のように尻を据えて辛抱するようにという祝いの表現であったがもてなしが気に入らないと地蔵を置いたまま帰るので、翌日元の場所に返すのに一苦労したという。こうした風習も近頃では全く聞かれなくなった。

・顔見せ

 婚礼の夜は親戚が集まって祝うが、二日目は近所の主婦を招いて顔見せ披露をし、酒食を出してもてなした。また、姑が嫁を連れて、一戸一戸訪問して挨拶をし、手土産を配ることもあった。その際、特に隣家だけは実家の母親も挨拶に行った。このほかにも、花婿が近くの若者を呼んで披露宴を開いたりして、祝言の日から三日ばかりは新郎新婦の静かな時間がもてないのが普通であった。式場からみんなに見送られてその日に新婚旅行に発つ今の結婚式とは違って、結婚は家と家とのつながり、地域とのつきあいが最も重視されたのである。

・初泊り

 親類や組内などの披露が終わって一段落すると、新夫婦揃っての初泊りがあった。婚家から実家の家族への土産を持参することは今も行われているようである。
 

○年祝い

 昔は、女は十九才と三十三才、男は四十二才と六十一才を厄年として、厄払いの行事が行われたが、現在では男女を問わず、四十二才の初老、六十一才の還暦、七十七才の喜寿、八十八才の米寿が年祝いとして行われているようである。四十二才は自分で祝い、六十一才は子が祝い、七十七才と八十八才は孫が祝うものとされていた。還暦・喜寿・米寿は親類縁者を招いて、弓神楽などを催して盛大に行われたというが、今では内祝で済ませる家が多い。日本人の平均寿命延長とともに、今後は九十九才の白寿や百才を祝うのも稀ではなくなるかもしれない。
 

○普 請

 家屋の新築は昔は一世一代の大仕事であった。現在では、工務業者ヘ一切を委せることが多いが、昭和三十年代までは、本職の大工・左官以外はすべて親戚や組内の無償出夫によって行われた。 特に母屋の新築(本家普請)となると、完成するまで 一年近くの日数を要した。普請の準備はおよそ次の通りであった。

・手斧始め

 木挽きや山人夫に酒を振舞い、伐採の安全を祈ってから木伐り仕事を始める。

・木伐り

 普請に必要な松・杉・桧などを伐り倒す山仕事で、予め大工の棟梁が山現場を調べて伐採する樹木の下見をしてから伐り始めた。一本一本鋸と斧で伐る危険な手作業であった。

・木下ろし

 柱、梁、板材など用途に応じて小切りにした材木を山から曳き下ろす作業である。とび口やトッカンを使って転がしたり、木馬道を作って牛や馬で下ろすことが多かった。集材した原木は工場まで運んで製材するのが普通であったが、便利の悪い所では家の近くに移動製材機を据えて製材することもあった。しかし、発動機が開発されていなかった昔はすべて鋸と手斧に頼るはかはなく、一枚の板を作るにもたいへんな労力を要したという。

・地鎮祭

 屋敷が造成されると、敷地内に土を盛り周囲に竹を立てて注連縄を張り、神官を招いて地鎮祭を行う。普請の安全を祈る行事で、これが終わってから大工仕事にとりかかる。このことは科学の発達した現在でも必ず行われる儀式である。

・地固め

 建物の基礎となる地形石を据える場所を固めるためにサンヨー石に縄をつはて四方から突き固める作業である。現在ではセメントを流したりパイプを打ち込んだりするが、昔は唄で拍子をとりながら何回もサンヨー石で固めたものである。

・柱建て

 地形石の上に本柱を建て、横梁を打ち込んで枠固めをする。棟梁が板のしに描いた簡単な設計図をもとに指図をし、イロハの記号に合わせて組み立てる。

・棟上げ

 棟木を上げて最後の本組みをする儀式で、普通の中で最も重要な行事である。親傾や組内が総出で作業に加わり、棟木が上がると棟札を掲げて棟梁が祝詞を上げ、家主が礼拝する。その後で祝いの餅播きが行われる。近所の子ども達をはじめ、遠く他村からも建前餅を拾いに集まってきた。特に心餅や角餅の中には貨幣が入っていることもあって、大勢が押し寄せて争い合った。 その後で地面に筵を敷き、棟上げの祝宴が始まった。組内の女衆が作った料理を食べながらの酒盛りは延々深夜まで続いた。

・屋根葺き、壁塗り

 昔ははとんどが草葺き屋根であったから、藁、萱、縄などの材料を持って組内の手伝を受けた。瓦葺き屋根では瓦運びも手伝った。壁は土壁で、コマイ作りや壁土上げを手伝うこともあった。

・家移り

 内装が終わると吉日を選んで転居の家移りがある。この日も親戚や組内、知人などを招待して盛大に祝宴を催すのが普通であった。

・火事普請

 不慮の火災等で焼失した時は、組内だけでなく村中総出で灰掻きを手伝った。また普請の場合も、材木・藁・縄・米・什器などてんでに見舞いの品々を持ち寄って手伝いをした。今ではたいてい火災保険に加入しているために火事で焼失した場合の心配は少なくなったが、当時は地域住民の美わしい互助共済制度であった。

○葬 儀

・通 夜

 人が死去すると、直ちに隣家へ喪を知らせ組内の者が集まって葬儀の段取りを決めて親類縁者へ連絡する。その夜は身内の者が死者の枕元に線香を立てて通夜を行う。現在ははとんど電話連絡で済ませるが、昔は、講中の者が分担して歩いて喪を知らせていた。明治末期頃からは遠方の親類への連絡は電報によるのが普通であった。知らせを受けた寺では早速通夜の席におもむいて枕経を上げた。 神棚の前へ忌の字を書いた紙か白紙を貼り、家の片付けをして葬儀の支度にかかった。

・湯潅、納棺

 近親の者が集まって死者の体を湯か水で拭き清める儀式である。まず納戸にむしろを敷き、荒縄で襷を掛けて和かい布で体中を拭く。血縁の女が一反の白木綿で着物帯・手甲・脚絆・三角布・ずだ袋を縫って着せ白足袋を履かせ、その後で納棺する。昔はたいてい桶棺で土葬にするのが普通であったが、近頃では寝せ棺に入れ、回りに茶の葉を詰める。棺の中には死者が生前に愛用した茶碗などを入れた。ずだ袋の中には賽の河原の渡り銭として硬貨を入れ、また帝釈天の守り札を入れることもあった。両手に数珠を掛け、棺の上に羽織を掛けて刀か剃刀を置いた。湯灌の後には、塩で手を洗い清めた。

・葬 式

 葬式は普通友引きの日を避けて行われた。現在では専門の葬儀屋や仕出し屋に頼むが、昔は葬式の諸準備や家族、親族の賄いはすべて講中の者が取り仕切らねばならなかった。帳場・寺迎え、穴堀り・火葬の仕度などは男子の仕事、斎や仕上げ膳の支度など炊事一切は女子の仕事であった。 葬式の順序やしきたりは宗派によってかなり異なるが師匠寺のほかに役僧を頼んで三か寺も五か寺もの盛大な式を挙げる場合もある。喪主をはじめ血族、親族と死者と縁の深い順に焼香し、一般会葬者は屋外で焼香する。

・埋 葬

 葬儀が終わると棺の蓋を開けて近親者が最後の別れをし、縁の濃い順に釘を打って閉める。その後で肉親が棺を担ぎ、花・供物を持った親族や僧侶が読き、土葬の場合は墓地へ、火葬の場合は火葬場へ列を作って野辺の送りをする。火葬が終わると骨拾いをするが、長い竹の箸で拾い上げ、箸から箸へ渡して骨壷へ納める。骨はその日に埋葬しないで、四十九日の法要の日まで仏壇に置いて拝むこともある。 僧侶の読経が終わると棺を穴の底に下ろし、血の濃い順に土をかけ、線香や供物を供える。墓標や塔婆などは
宗派によって異なる。 埋葬が終わると、仏壇の前に集まり念仏を唱えるが、これも宗派によってさまざまである。その後、家族・新族の仕上げ膳や講中へのねぎらいの馳走をするが、この様式も時代や地域によってかなり異なるようである。

○法 要

 死者の法要は宗派によって違うが、忌日には肉親が集い僧侶を招いてお経を上げ、故人の思い出話をした。今ではかなり簡略になっているようであるが、昔は概ね次の日が法要の日とされていたようである。 初七日・四十九日・百ヶ日・むかわり(一年) ・三年・七年・十三年・十七年・二十五年・三十三年・五十年
 (宗派によって異なることもある。)

・神道の祭日

 十日・二十日・三十日・四十日・五十日・一年・三年・五年・十年・十五年・二十年・三十年。