中世の祇園信仰

小童村誌 第二章 歴 史

第三節 中世の小童

五 中世の祇園信仰

祇園信仰の広まり

小童の祇園社(須佐神社)は備後の三大祇園の一つと称され、古くから備後北部一帯に広い信仰範囲をもっていた。そのことを示す中世の資料として、「須佐神社縁起」・波梨賽神社(別名大神輿)などが残っている。そこで、これらを検討することにより、中世における祇園杜への信仰状況を推察してみたい。

現在甲奴町重要文化財に指定されている「須佐神社縁起」は、文明元年(一四六九)五月十五日ふもとじゃ□しゅつなとき(麓城主綱時) の奥書があり、小童祇園社の縁起を記した文書では最古のものである。以下主要部分を口語体で列記する。詳細については第六章第一節に掲載している解読筆写文を参照されたい。

①牛頭天王、用明天皇丙寅元年(六世紀末)五畿七道を巡られた時、備州江すみという所で、こたん將来という長者に一夜の宿を乞うたところ、無情に追出された。同州賀屋とゆう所で、そみん将来という貧者に宿を乞うたところ、慈悲深い者で、「御宿をすることは安いことだが、食事に出す米がない」と申しあげると、天王苦しからずただ宿を貸せばよいと申された。女房は門前の木にかけていた粟を三束おろし、踏みがらを天王に敷かせ、実は飯にして、かしわの葉にもり、栃の皮にすえもてなした。天王大いに喜びげんぞく(従者)達にくばり、しばらくして邪毒鬼神を召され、こたん将来が一夜の宿を惜しみたことは憎い、是を七日七夜の内に滅ぼすべしと命じられた。その時そみん夫婦が申すに、「それがしに娘が一人おり、こたん将来が太郎の嫁になっています助けてください。」と涙をながして申しあげた。天王は汝らがこよいのなさけ嬉しきゆえ許すといわれた。女房おん前に出て「恐れ多き事ですが偕老同穴のちぎりと申します、婿をも助けてください。」と申し上げると。天王は「こたんが子孫は根を切り葉はからし絶やすべきと思うが、汝ら夫婦の志ふかきによって許す。」と符守に呪文を唱えて授け、急ぎ持ち行き娘と婿にかければ、うたがいなく助かりのがるるものなり。こたん将来の所では、くしょう神の守札を四方八方に立てているので、弓矢・剣・鉾を入れるとこがない。しかし邪毒鬼神がていねいに調べてみると窓の下がふさがっていない、是より切り入り八万四千のけんぞく七日七夜に滅ぼした。
えいさ えいさ えい えい おう 善哉
それより竜宮城へめぐり、ぼろん国へ住たまう。おん前の松の木に鳩一つがい羽を休めさえずるに、竜宮城に姫宮がおられる、后にされるがよろしかろうと鳴く、その鳩の飛行く後をついてゆき、はりさい女と申す后と結婚され、八人の王子をもうけられた。

②宝亀五年(七七四)甲寅光仁天皇の御宇四月天下に疫癘はやる、備州世羅の郷に小童が現れて、「吾は邪毒鬼神本地妙見菩薩なり、此の里に牛頭天王を祭れば、疫癘をみそぎばらいすることができる」と申された。そこで御殿所を建て、同年六月十四日に旗・鼓・笛・鉦打ちならし御神幸し御旅所へ、同十六日未申のこくもとの御殿所へ還御す。それより霊所日々繁栄、村里ごおりごおりより崇め敬いたてまつるように
なった。
びんごのくにせらごおりひち村むとうざんぎおんしゃごずてんのうちん座次第記

③参社
東に邪毒鬼神天王 中に牛頭天王 西に邪ふしょい天王
末社
・本宮の東側にいざなぎ・いざなみ・八王子を祀る
・本宮の西側に波梨采女を祀る。これは御神幸の時大ごぜんともいう。
・さんばんのおどりしるすにおよばず。
・その他いつくしまさん・みたらしみずはめの明神・さんのう七社の別宮

④祭礼進行の次第おん先はらいはひえの次郎左衛門
・一の神輿は、ゆきざね・ゆきもり・むねかねおん共太鼓をかつぐのは頼藤のけんご(若者) ゆきざねのけんご。
・ニの神輿は、(春日井・高山の地名がみられるが意味不明)
・三の神輿は、(前半部分意味不明)きわに供僧六人矢ぶさめに年々一人ずつかわる。
・三台の神輿帰りちょうの衆中、のりむね・南原・塩貝・小泉・かきのたいまつ・まるぎりまつの者残らず出ること。
・祭礼の費用は、森末名の中のいちもつの神田、りゃうおうめんの神田、国安名の中から代百文出すこと。
註( )内は筆者の補足である。

「須佐神社縁起」の内容から考察できることを列記してみる。

ア、「霊所日々繁栄、村里こおりこおりより崇め敬い奉る」と表現されているが、当時流行病の猛威から逃れる手段として、祇園社が広範囲の人々から熱烈に崇められていた状況が伺える。また疫病除けの神として人々の熱い願いに支えられ、民俗宗教として発展した祇園信仰の状況を知ることができる。

イ、二つの神話はどちらも須佐神社の縁起に係わるものであるが、① の神話は神仏習合の影響で、武塔神が牛頭天王に変わっている等内容に変化があるが、備後国風土記逸文が基になっている。②の神話は社殿創建についてのものであるが、既述の如く飛鳥時代から奈良時代にかけて、主たる神社の社殿が建立されていること、祭神について備後国風土記に記されていることから、この創建時期は妥当と考えられる。

ウ、波梨賽女(櫛名田比売)は、「御神幸の時、大ごぜんともいう」と記されている。大神輿には、その内部に永正一四(一五一七)年初建立の墨書があり、当時はまだ作られていない。したがって大ごぜんとは単なる愛称としてそれ以前から使用されていたのか、あるいは大神輿を調査された岡田貞次郎氏が、報告書の写真説明の中で「基盤部と軸部がそぐわない。永正一四年は軸部の製作年であって、基盤部はそれ以前とも考えられる」と述べているように、大神輿は永正一四年以前にもあって、大ごぜんの愛称で神幸され、祭りの主役を担ってこられたとも考えられる。

エ、「さんばんのおどりしるすにおよばず」と記されている。この踊りは中世に流行った風流踊りと思われるが、祇園社においても境内で踊られていたようだが、内容が分からないのが残念である。

大神輿

大神輿は須佐神社の境内末社である、波梨賽神社(櫛名田比売神社)の別称で、神社自体が神輿であるので、常に御神体が宿っておられる珍しい神輿である。日本一大きい神輿と言われ、「大ごぜんさん」または「おごっさん」の愛称で親しまれている。
須佐神社の夏の例大祭は、当時は毎年六月一四日(現在は七月の第三日曜)から三日間執り行われていたが、大神輿は初日に、御旅所である武塔神社へ渡御され、三日目に還御される。この御神幸の際当時は大神輿を担いでいたと思われている。
大神輿の製作年は、神輿内部の左壁板の墨書に永正一四(一五一七)年初建立とある。ただし先述の知くそれ以前に製作されていたとも考えられる。

一九五九(昭和三四)年に、広島県重要文化財の指定を受けている。その際、県は岡田貞次郎氏に依頼して調査し報告書にまとめている。そこで報告書の特徴的なことを列記してみる。
①須佐神社の神輿は八角形のものであるが、その基盤部の側面の剣どもえ文の模様が優秀である。鎌倉末期春日大社等に現れたこの種の模様は、中園地方では一例として、山口市の今八幡宮の楼拝殿(室町時代の上層の縁かずらのあたりにある。広島県としてはこの神輿にあるくらいで珍しい。しかし、ともえ文の頭が餓鬼ともえから、おたまじゃくしどもえに移ろうとする境のような形をしているように思われる。そして正面のものは三つどもえで頭が分離しているのに対し、側面のは三つどもえでしかも頭が連続している。なお正面のものは中央と両端に剣かたぼみの紋がはいっていることは、時代が下がることを物語るものであろう。内部の墨書永正ごろのものとして適当と思われる。

②平安朝の中期、御霊信仰が盛んになった時に神輿が多く造られるようになった。神輿の普及は神幸祭の一般化によって全国に広まる。この御神幸の途中神輿振りと称して振り立てることがあった。この神輿振りは神威の具現した行為であるが、須佐神社の神輿にもこの神輿振りがあったとみえ、両側面に二本ずつ柱の上部からその先端を切り小型にした腕木が出ている。この腕木は長柄の先端からこの腕木へ綱を掛けて固めたものであろう。 珍しいものである。

①神輿は普通各すみに柱を立て、内部は一室とした構造形式であるのに、須佐神社の神輿には心柱があり誠に珍しい形式である。心柱を取り入れた要因は、伊勢神宮の心の御柱の如く、神の御心をお祭りしようとしたのか、または、前記の神輿振りのため固めの構造であるとも考えられる。どちらにしても、心柱のあることは大変珍しいことであるし、室町風の意匠の残っている点で、永正の墨書とともに県内では優秀な神輿と思われる。

(文責 福原 勲)

著作権: 小童村誌 甲奴町郷土史小童地区編
平成十四年五月一日 編集・発行:小童村誌編集委員会

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