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小童祇園社への信仰

小童村誌 第二章 歴 史

第三節 近世の小童

四 小童祇園社への信仰

社殿建立

内くから農神・疫神として、多くの人々に信仰されてきた小童祇園社(現須佐神社)には、社殿建立の棟札が多く残されていた。ところが、一八六七(慶応三)年の神宮寺炎上の際焼失してしまった。しかしさいわいなことに、武塔神社神職近藤出雲が残している資料集の中に書き留められていた。それが棟札1・2・3である。

棟札1・2・3の詳細は後ほど

これらの棟札によると、中国地方の覇者となった毛利輝元・元継父子によって、一五九四(文禄三)年に社殿が建立されている。(軒札1)ついで一六二五(寛永二)年に、福島正則改易後を受けて広島藩主となった、浅野長鼠によって再建立されている。(棟札2)またこの棟札には、小童村大庄屋として長正兵衛の名前もみられる。
このように、新しく支配者となった武将によって建立されている背景には、「小童の祇園さん」と親しみ崇められている祇園社の社殿を建立することにより、人心を掌握しようとする意図があったと考えられる。
下の棟札は、「国郡志御用下志ラベ書出帳・小童村」に書き残されているので参照されたい。さらに「書出帳」には、一七〇一(元禄一四)の建立の際には、西上原村の建山の材木一三八本が寄進され、郡中より人夫九〇〇人、小童村より人夫四OO人が出たと記している。

広い信仰範囲

小童の円通山正願寺には、大般若経六〇〇巻が所蔵されている。この般若経の裏表紙の見返しには、「備後州小童祇園社宝物」と記されている。したがって、祇園社から正願寺へ移されたことがわかる。移された原因は、明治初期の神仏分離政策にあると考えられている。この大般若経が奉納された時期は、経本の包みに「発機願主神宮寺潮音」とあり、潮音の名は、一七九五(寛政七)年の神輿再建棟札にも記されていることから、一八〇〇(寛政二)年ころと考えられる。

寄進者の分布について、大般若経を調査した甲奴町文化財保護委員会は、「旧藩時代の郡別にみると、備後国では、世羅郡・甲奴郡・芦田郡・神石郡・三谷郡・奴可郡・三上郡の七郡内一三四村、備中国では、哲多郡・阿賀郡・川上郡・後月郡の四郡内二〇村に及んでいる。さらに、個人での寄進三〇三巻、村または組としての寄進二九五巻、寄進者名が確認できないもの二巻」と報告している。したがって、小童祇園社の信仰範囲は、広島県中部から北部、さらに岡山県西北部にいたる広範囲であったことがわかる。
そして、先の須佐神社近藤一彦宮司が書き残している「須佐神社由緒」によると、これらの地域には、小童祇園社信仰の「講」が組織されていた。夏の例大祭には「講」の代表が参詣し、お札を受けて持ち帰り、講中に配布していたことがわかる。現在も比婆郡口和町竹地谷地区には、「講」が引き継がれている。

また、一六六八(寛永八)年に大神輿を台車に乗せた際、三谷・奴可・甲奴・神石・世羅五郡からの、人別寄付によったと、「小童祇園社由来拾遺伝」にあり、須佐神社の信仰範囲を示している。

小童祇園社由来拾遺伝

「小童祇園社由来拾遺伝」は、中世末期の「須佐神社縁起」とともに、須佐神社の由緒を伝える貴重な資料である。この拾遺伝は、一七五七(宝暦七)年に、小童祇園社神宮寺別当によって記されている。そして、その前書きや後書きの中で、「当山の由来は、旧記焼失して今は定かでない。そこで、地方に語り伝られていることを拾い集めた。・・・もしこの伝を後世に伝えなかったら、信心は盛んにならないだろう。信心があればこそ、人は神の恵を得、天下泰平・国家安穏なのである。此の故に自分には力がないので拙い記し方だが後世に伝えるもの也」と述べている。

由来を後世に伝えたい、この願いを受け止めながら、神仏習合時の祇園信仰の状況を知るため、内容を簡略にして箇条書きにまとめてみた。

(1)祭神
素蓋鳴尊、異国にては牛頭天王と申す。本地は薬師如来である。

(2)鮮民将来
用明天皇の御宇(五世紀末) 、午頭天王五畿七道を廻り、江の隅と一言う所で一夜の宿を求め、まず巨旦と言う長者に求めたところ貸し参らせなかった。次に蘇民将来と言う翁夫婦に乞いたまえば、貧しい中にも、心をこめてもてなしたので歓喜したまう。

(3)八王子
前の松の木に一つがいの鳩がとまっていた。天王その鳩の案内で南海の竜宮にゆかれ、頗梨采姫(はりさいひめ)と結婚され八王子をもうけられる。

(4)茅の輪
天王、八王子と多くの眷属(配下)を従え巨旦を滅ぼし、蘇民将来には「後世疫病流行せば、茅の輸を身につけ蘇民将来子孫と言うベし、その災必ずまぬがれん」と教えられた。

(5)祇園水
天王、甲奴群本矢野村に着かれた際、路上に少しの水出るところあり、その水にて禊したまう、よってこの水、若水とも祇園水とも言う。今でも、六月御祭御輿すましにはこの水を用いる。この水をみだりに穢すものは病を得る。

(6)八岐の大蛇退治
雲州ひの川にて、天王、八岐の大蛇を退治して姫を救われる。その後その姫と夫婦になり給う。

(7)小童の出現
光仁天皇宝亀五(七七四)年、天下に疫病が流行、その時、この地に馬に乗った小童が現れ、牛頭天王を祭れば疫病はしずまると託宣した。そこで神社を建立し祭ると疫病の災いがなくなった。

(8)大神輿
頗梨采神とも稲田姫とも申す。今は大御前と申す。寛文八(一六六八)年世羅・三谷・三上・甲奴・神石五郡の内、人別壱銭の助力をもって事に乗せ奉る。

(9)的神事
正月七日の的神事にあえば、その年の厄をのがるるというは、天王、昔巨旦という悪鬼神を弓で射て、降伏したまう心とぞ申し伝う。

(10)その他、小童の出現と地名との関連や、境内末社・境外末社のことなどが記されているが略す。

小童祇園社歳式 歳中行事定書

須佐神社には、神社の年中の祭礼を執り行うにあたって、神事の進め方・社僧や神職の役割分担・御供物の内容等を記述した、「小童祇園社祭式歳中行事定書」が残されている。一八三六(天保七)年に書かれたもので、正月元旦の歳旦祭から始まり正月七日の的弓祭へと詳細に書かれている。しかしここでは、夏の例大祭の神事についてのみ要約して紹介する。

(月日は旧暦)
一 五月二九日忌指
榊を青近村円満寺山と高山天神山で隔年に、当番四人の内より申し合わせて伐りに行く、此の料米一升出す事
紙手切役 陸奥
弐本 本社鳥居え立 舛取万吉
弐本 武塔社同   棚守貞平
弐本 西野村境   御先払保蔵
弐本 宇賀村境   八幡祢宜千吉 山王祢宜与兵衛 隔年番
弐本 戸張村境   神宮寺 周兵衛 隔年番
弐本 青近村境   武塔神社出雲 御子役伴次 隔年番

一 六月一日 道造り
但し本社より御旅所まで修造、宮方残らず出る、酒三升代銀は総割り、

一 六月十日
神輿清役 神輿番 伴次 千吉 新五 万吉
右清水、甲奴郡矢野村へ酌みに参るのが習わしである、役伴次郎
御祭礼中警護する者を呼び出し申し渡す、酒を飲ませること
大神輿綱打、神宮寺にてととのえる
但し村内氏子より縄一本ずつ寄進する、酒五升神宮寺より出す

一 六月十四日
御幸御行列左の通り
武塔杜より御迎えとして本社へ近藤出雲参る
御神事吹囃し、甲奴郡矢野村より昼九ッ(十二時)打ち入り
御先鉾 比叡権現祢宜 保蔵 馬役
御先掃 厳島祢宜 留十郎 山王祢宜 与兵衛 馬役
八幡宮金御幣 春日井八幡宮祢宣 馬役
同神輿 春日井谷中氏子御供奉

御太刀 神子役伴次郎 馬役
金之鉾 高山天神宮 祢宜新五郎 馬役
御供 御当役周兵衛
御供 妙見祢宜貞平
御供 大祢宜伊達紀伊守 長柄 長刀 挟箱 沓持 牽馬
御供 神主馬役神宮寺勤之 但 馬計り
御供 字賀村信野岩見正 馬役 長柄 挟箱
御供 幣取広田陸奥正 馬役
御供 行列馬指役兼帯 国宗田中刑部 馬役 挟箱
御供 舞神子陶山加賀正 長柄 挟箱

八王子金御幣 塩貝八王子 祢宜長七 馬役
同神輿 塩貝谷中氏子供奉
御神事御旅所江甲奴郡矢野村渡拍子打入
大神輿 自他の氏子供奉
出御之時鉢之音楽於本社神宮寺行之
金之鉾 婆利賽祢宜神宮寺より出
御供 別当神宮寺 長柄 挟箱 牽馬 乗物
的馬壱疋 庄屋ヨリ出ス
的 受 高山谷中
但的折敷三枚天神祢宜新五郎江下遣ス
的馬清メ先年者陸奥相勤候由之処当時中絶
神輿仮殿江鎮座以後御子舞

一 十五日
御神楽奉納
一 十六日
御神事吹囃シ春日井広石塩員三谷ヨリ打入之事
但広石塩貝両谷先後争出来、
天保六年御約之上隔番ニ相定、御書双方エ御下ケ有、同年
広石谷先エ立候事
御子舞 鉢音楽神宮寺 太鼓刑部
但仮殿之外三遍巡ル
金御幣春日井周兵衛 金御幣吟蔵 金御幣塩貝長七
御先鉾保蔵 御太刀伴次郎 御子頭加賀 神子増蔵 神子伴次郎 神子千吉
右巡終テ直ニ仮殿ニ入ル
御還幸行列並御供
御幸之節ニ同断 但字賀村岩見出張ハ無之

神宮寺の火災

一八六七(慶応三)年に、須佐神社の神宮寺である「亀甲山感神院本願坊神宮密寺」が焼失している。火元は、仕事に入っていたひかわし(槍皮師のことか?)の作業場であったと陶山(神職) の日記に記されている。里人にとって大変な出来事であったので、現在でも「七日七夜焼け続けた」等と古老の話に出てくる。神仏集合の思想のもと、長い間須佐神社の運営に大きな影響力をもっていた神宮寺が、宝物や古記録類とともに焼失したことは、かえすがえすも残念なことである。なお、現近藤宮司宅は、焼失した神宮寺を模して建てられている。

(文責 福原 勲)

著作権: 小童村誌 甲奴町郷土史小童地区編
平成十四年五月一日 編集・発行:小童村誌編集委員会

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編集後記