小童保の成立

小童村誌 第二章 歴 史

第二節 原始古代の小童

三 小童保の成立

祇園社領小童保

小童は平安時代末期の一〇九八(承徳二)年に、京都の祇園社(現八坂神社)へ寄進され、以後室町時代中期まで約四〇〇年間、京都祇園社領小童保として、その経済基盤を支える役目を果たしてきた。寄進者については、白河上皇説と堀河天皇説とがあるが、小童がどのような経緯で京都祇園社領となり、保が形成されたのか考察してみたい。

小童保の成立について、一三二三(元亨三)年に、祇園社の晴顕が著した「社家条々記録」の「祇園社記」には、次のような記述がある。

白河院
応徳三年 被因准賀茂社佳例、被備進日別十三前神供料米、追而被下行所
一記堀河院被付料所云々
承徳二年、為無末代退転、被其長日用途料所、被寄附四箇保
一丹波国波々伯部保 ※註(現兵庫県多紀郡城東町波々伯部を中心とした一帯)
一近江国坂田保 (現滋賀県東浅井郡びわ村細江)
一近江田守富保 (現滋賀県蒲生郡蒲生町を中心とした地方)
一備後国小童保 (現広島県甲奴郡甲奴町大字小童)
此四箇保、皆以被准官省符之地、被免除勅役大小国役、被寄附之由、被下度々官符宜、年中長日神供井恒例
臨時社役等令相折之、重色異他社領也

要約すると「応徳三年(一〇八六)、白河院は賀茂社の佳例にならって、日別一三前の神供を祇園社に寄進し、さらに承徳二年(一〇九八)には、これが末代まで退転することがないようにと、長日用途料として小童保等四箇保を寄進した。此の四箇保は官省符の地に准ぜられ、勅役大小国役は免除される。 重色他に異なる(大変重要)地である」となる。

この四箇保は、重色他に異なるの記述にみられるように、祇園社の古くからの社領で、社領の中でも根本的な位置を占め大変重視されていた。

しかし、この白河院寄進説について、小杉達氏はその論文「祇園杜領四ケ保の成立について」のなかで、「祇園社記」は鎌倉時代末期に編纂されたものであって、賀茂杜佳例の記述等疑問がもたれ、むしろ註記に「堀河院被付料所云々」とある如く、堀河天皇の勅願による寄進であると述べている。論文「祇園社領小童保について」を著した久保田収氏も、小杉氏の説を妥当としている。

堀河天皇は八歳で即位し、父白河上皇の院政の下で約二十年の在位であった。幼少より健康に恵まれず病気勝ちで、度々健康を願う祈祷がおこなわれた。 一〇九五(享保二)年の病気の際には、祇園社に次の如く祈願されたことが、「中右記」に記載されている。
・全快すれば祇園杜に行幸する。
・封戸五〇烟を祇園社に寄進する。
・多宝塔一基を建立する。

この祈願は翌々年の一〇九七(承徳元)年から実施され、同年二月三日封戸五〇烟が寄進され、同年四月二六日には祇園杜に行幸しており、翌一〇九八(承徳二)年の一〇月二〇日には、御塔供養が行われている。

この時寄進された封戸五〇烟の中に小童祇園社(現須佐神社)付近の封戸が含まれており、この封戸を基盤に小童保が形成されたと考えられる。
「八坂神社文書」によると、小童保保司職の相伝は次の如くなっている。
「小童保相伝系図」
・勝尊-賢円-康円-田房女-円栄-顕円-顕詮
   |
    -忠円(舎弟忠円盗取本証文畢 但流断筆畢)

この系図の註「承徳開発寄進本主」から、小童保は勝尊により開発されたことが分かる。勝尊は京都祇園社の大別当にもなった有力社僧である。

これらの資料から、小童保の形成について考察すると、承徳元年に堀河天皇によって、封戸五〇烟が京都祇園社に寄進されるが、当時の杜会情勢では、国衙(役所)からの封物の納入が非常に不安定で、安定的な収入になりえなかった。

そこで直接支配を行うため、京都祇園社の有力社僧である勝尊は、備後国の国衙や現地である小童を訪れ、国守や小童の有力者と交渉し、封戸にみあう土地と戸数を確保し、便補の保として小童保を成立させ、京都祇園社を封主として自分は保司職となり、保の経営を行ったものと考えられる。

こうして京都祇園社による小童保の支配体制が確立すると、小童保は祇園杜に対して、正月から六月にいたる六カ月間の、各月の上旬計六〇日の神供料米として、五一石五斗四升を上納し、さらに御塔造営の際の負担や、恒例臨時の社役も勤なくてはならなかった。ただし官省符荘(不輸の権利を持つ荘園)に準じた扱いであった。

小童保の形成について考察を試みながら疑問に思ったことは、祇園杜へ封戸を寄進する際、遠隔の地である小童が、どうしてその対象になったかということである。この点について小杉達氏は、「保成立にあたっては、以前から祇園社となんらかの関係のある地が選ばれているという事実を見逃してはならない」と述べている。
小童が杜領になる以前に、京都祇園社とどのような関係があったか考えたとき、須佐之男命を祀る須佐神社、武塔神を祀る武塔神社があったことに帰着する。祇園信仰発祥の地とされる備後地方の一角に、武塔神・須佐之男命を祭神として、疫病除災の神として信仰を集めている二つの神社があった、したがって小童は選ばれたと言える。
こうして小童は、世羅郡内の周辺の村々が、高野山領大田荘となるのに比して、祇園社領小童保として、室町時代中期まで独自な歩をすることになった。

(文責 福原 勲)

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