Skip to main content

小童の地名の由来

小童村誌 第七章 民 俗

第四節 口碑

四 小童の地名の由来

小童という地名の起源や読み方について、いろいろな言い伝えがあるが、このことについて、識者や郷土史研究家が書かれた文献も意外と多いので、その文献の中からいくつかを取り上げてみた。

1 「小童」此処しちむらというは、むかし素蓋鳴尊、簸の川上にのほりましし時、老翁老婆、少女を中にすへ啼居ける時、尊問ひ給ひしかは、かのおろちの事かたりしぞ、尊しかあらばの小童(註)を我にあたへよ、長養て妻とせんと宣ひし。其後大蛇を討給ひて後、かの小童を此に長養給ひし処とて、夫にちなみて此処を小童村と申すなり。「註」小童←少女稲田姫のこと(『西備名区』より抜料)


2 「案ずるに、小童はシチと訓す。室の轉、貴人の妻の称なり、又女のこと少女のことにもいふ。足那槌、稲田姫のことを小童といへりしに起りて小童の字を書くか……」(『世羅郡誌』より抜枠)

3 『往昔、素蓋鳴尊、当地方御巡幸の砌、多数の童来りて、尊の袂を引きて喧噪甚だし、尊為に顰蹙叱して宣く「ヒチぐるうな」と。即ち宣言「ヒチ狂うな」のヒチを以て地名とす。因にヒチとは小供の儀なり。「狂うな」は騒ぐなの意ならん。』(宝歴七年に記した『祇園社由来拾遺伝』より抜粋)

4 ひち(しち)を小童と表記することについて
一四六九(文明元)年に書かれた『須佐神社縁起』には「宝亀五年(七七四)に、天下に疫病が流行したとき、この地に小童(こわらべ)が現われ、この地に牛頭天王を祀れば、病気はみそぎはらうことができると託宣があったので、御殿を建て、六月十四日に旗・鼓・笛・鉦(かね)を打ちならして神儀をした。それより霊場日々に繁栄し、村々より崇めたてまつる」と記されている。このことから、小童(こわらべ)の現われた土地として名が伝わると、いつしかひち(しち)の地名を表記するのに、当て字として小童と書くようになったのであろうとの説がある。

5 「小童をどうしてヒチと呼ぶようになったのかは、よくわからない。小童をヒチと訓ませたのではなく、ヒチに小童の字を宛てたとみる説もあるが、いずれにしてもその理由はさだかでなく、古くからも十分な説明がなかったようである。」(久保田収博士著『祇園社領備後小童保』より抜粋)

以上の文献を簡単にまとめてみると

イ 稲田姫のことを小童と呼び、その稲田姫が素蓋鳴尊と結婚され、この地に住まわれたので、その呼び名をとって、地名を小童とした説。

ロ 素蓋鳴尊がこの地を巡幸のとき、大騒ぎした童を「ヒチぐるうな」といって叱られた。その「ヒチぐるうな」の上の二文字をとって、地名をヒチとした説。

ハ この地に小童(こわらベ)が現われて、いつしかひち(しち)の地名を表わすのに当て字として小童と書くようになった説。また、しちと呼んだか、ひちと呼んだか文献によりまちまちである。

そのほかにも、七人の童子が天降りて……と七人の神童説などがある。
このように、小童の地名の由来については説が分かれており、今回調べた範囲ではどれがほんとうかは定かでない。伝説なのかあるいはまた歴史上前記のいずれかが事実なのか、いずれにしても、文献などを考察するに、小童は神話に因んだ地名であることがうかがえる。

小林 繁 記述

著作権: 小童村誌 甲奴町郷土史小童地区編
平成十四年五月一日 編集・発行:小童村誌編集委員会

20110616_8.jpg

編集後記